オルダス・レナード・ハクスリー
1937年、彼は米國に渡り、ロサンゼルスを拠点に脚本と評論の仕事に携はる。ハリウッドの工業的叙述法と交渉した経験は、彼の文明論を具体化した。大量生產の物語は、人間の關心を規格化する。然し彼は、藝術の形式そのものに救済を託さない。藝術は感覚を鍛へる道具であり、倫理の証明では無い。彼の散文は、此の冷徹な距離を保ちながら、読者の精神に微細な注意力を呼び戻す節度を持つ。 私生活に目を移せば、1919年にマリア・ニスと結婚し、子マシューを得る。1955年に妻を病で失ひ、翌年、演奏家ローラ・アルケラ・ハクスリーと再婚する。交友は広く、ジェラルド・ハードと共に精神修養と科学の交差點を探り、講演と書簡で若い世代に開かれた議論の場を作つた。彼の人柄は、皮肉の刃を鞘に納めた静かな礼節に特徴があつたと言はれ、議論の相手に恥をかかせぬ言葉の運びを尊ぶ氣品があつた。趣味は讀書と散策、音樂鑑賞で、視力の制約はあれど、聴覚的世界に織り込まれた細部を審美の糧とした。 主要場面は三つの織りで成る。第一に、「孵化・条件づけセンター」—生殖の人工化とカースト配分が、ヘンリー・フォードの組立線の神話化と重なり、世界国家の標語「共同性・同一性・安定」が掲げられる。宗教は切頭のTとして世俗化し、讃歌と儀式が集團的陶醉を生む。此処でバーナード・マルクスの違和の身振りが微かに鳴り、制度の音程から外れた個が提示される。第二に、「野蛮人居留地」—シェイクスピアの言語が保たれたままの共同體で、ジョンが誕生する。彼の母リンダのシーンは官許的快樂の陰影として機能し、祖型的な母の痛みと都市の無痛が對照される。第三に、「統治者官邸の對話」—ムスタファ・モンドが藝術・宗教・科學の自由を「安定」のために棄却したと論じ、島流し(ヘルムホルツ・ワトスンとバーナード)の寛容と、ジョンの「拒絶」の孤高が分岐する。モンドの論駁は、最大幸福の功利主義が失ふ価値(悲愴・深さ・危険)を冷やかに列挙する(ジョンが口にするシェイクスピアは「苦痛を欲する権利」の詩的論證だ)。 語りは三人稱の移動視点だ。早いカット割の章構成が都市の分節を映し、説明的対話がイデアの実験場として働く。開巻三章は殆ど論文の骨組で、プロットはアイディアの變奏として鳴る。文體は標語・広告・儀式の断章を挿入し、反復で条件づけのリズムを擬態する。此の操作は「物語の肉薄」を弱めるとの早期批評も招いたが、逆に装置の見える化が本書の冷光を作つたと言へる。
宗教的層位は、聖性の転倒に顕著だ。十字はTへ、主の名は「わがフォード」へと轉位し、儀礼は性・消費・同調のエクスタシスを演出する。此の世俗神学は、禁欲的圧政と対照的に、快楽的圧政の輪郭を明らかにする。ムスタファ・モンドは殉教者の不在を安定の代償として肯んじ、ジョンは鞭打の自己犠牲に救済を求めて破滅する。救済は制度からは來ず、悲哀の引受へとしてしか見出されない。 比較文学の視座からは、前代のH・G・ウェルズ『人のごとき神々』のユートピア楽観への反撥がまず鍵だ。ハクスリーはウェルズ的合目的の合理を諧謔へ反轉し、管理と慰撫の連結を暴露する。他方、ザミャーチン『われ』との親縁も論じられ続けた。オーウェルは影響関係を主張し、英米では〈『われ』—『すばらしい新世界』—『1984年』〉の系譜が語られた。ハクスリー自身はウェルズへの逆照射こそ執筆の動機だと記し、同時代の反応も複層だ。結論として、ハクスリーの特異性は、禁圧の恐怖ではなく、快楽と消費がもたらす従順の甘美さを制度化した点に存す。 受容史は毀誉褒貶が併走する。刊行直後の反發は、性と家庭観への攻擊、宗教冒涜の嫌疑、物語性の弱さなどに集中した。アイルランドによる1932年の発禁は象徴的で、その後も米國の學校で度々挑戰を浴びた。一方で二十世紀末の再評価は決定的で、モダン・ライブラリーは二十世紀英語小説の第五位に列し、BBC「ビッグ・リード」にも名を連ねた。議論の震央は、表現の自由と教育現場の選書倫理に移行し、禁止運動は逆説的にテクストの公共性を増幅した。 象徴と伏線は、色・薬・機械の連鎖に見える。階級色の制服、ソーマの恍惚、障害ゴルフ、感覚映画「フィーリーズ」、睡眠學習の反復句が、それぞれ制度の内部音樂を奏でる。ジョンが口ずさむシェイクスピアは、言語の古典的重力として配置され、レニナ・クラウンへの呼びかけ「淫奔の女」(オセローの反響)が彼の倫理的極北を示す。此の言語衝突は、標語の平板さと詩の深みの差異を可視化し、終局の自罰へ伏線を牽く。 制作背景に就いて補足すれば、ハクスリーの家系は科学と近縁で、優生學時代の知的空氣が本書の化学的胎内環境の観念に關はる。だがテクストの核心は遺傳より条件づけへ重心が置かれ、育成と環境の制度化が主題を牽引する。此の強調は、科学の技術的可能性と政治の管理欲求の結託を照らす。1946年序文と1958年再訪は、此の読みを作者自身が反芻した資料として重要だ。
結語。『すばらしい新世界』は、近代の二分法—自由か秩序か—を、快楽を媒介とする第三の統治術へ反轉させた。痛みを除去する装置が、悲劇と祈りの語を奪ふ時、藝術・宗教・科學の自由は同時に痩せる。ジョンの破局は、自由を「危険と悲愴を含む選好」と定義し直す詩的断言だ。監視より鎮靜、禁欲より過剰、恐怖より慰安が社会を支配する時代に、本書は依然として現在の寓話だ。検閲と復権の反復は、その寓話性が公的領域の倫理的討議を促す証左だ。此の小説はなお、現代の情報環境—注意の経済、快樂の設計—に照らし、自由のための苦痛をどこまで引受けるかと問ひ續ける
大量生産・大量消費を目的に作られた最小不幸世界。ただ、最小不幸世界は最大幸福世界になりうるのか。ta.icon.
フォーディズムを風刺した別の作品としては、
」1936がある。
https://scrapbox.io/files/68fd57b1d5a072dc8565736f.png