行動は制御できるが着想はそうではない
行動は自身で制御できる。だからこそ、タスク管理という行為が成立する。
もし、自身の行動が何も制御できないなら、おそらく何かしらの病院に行くことになるだろう。
手を上げようと思えば手を上げられる(ただしこれは、脳神経学から「話が逆だ」という意見が提出されている)。動作は制御できる。動作の統合である行動もまた、意志によって制御可能である。
問題は、着想は脳の情報処理であり、しかも関与の割合で言うとほぼ無意識の仕事である。意識にできるのは、対象に注意を向けることであって、「着想」を意識でエミュレートすることではない。
*ちなみに発想法とは、そのような注意の操作を意識的に行う為のアプローチである。
「ホゲホゲについて10分考える」ということは行動であり、タスク管理である。しかし、その思考によって求める結果が得られるわけではない。
だからこそ、ドラッカーは、旧来的な管理から「マネジメント」へのシフトを説いた。
知識労働者の仕事を、工場のようなやり方で「管理」することはほとんど意味がない
パソコンの前に何時間座っていたかを記録しても、彼らの成果の測定にはならない
まったく別の行動をしているときに、唐突にホゲホゲについての着想を得ることもある。着想は意識外の作用なので、「今は新しいことを思いつかないでいよう」と意識したところで、即座にそうなるわけではない(訓練すれば可能であろう)し、逆に「今はこれについてだけ思いつこう」と思ってもそうなるわけではない(これはもっと難しい)。
行動を明らかにしても、「これは何か?」といったワークフローをどれだけ克明に、精緻に整えても、結局それはすべて「意識」の支配下におくということであり、無意識はそんなことを知らん顔で彼らの仕事を坦々とこなしていく。
その前提を受け入れてなお、「いや、着想ですらも意識の制御下に置くべきだ」と考える向きもあるだろうし、そのような制御の埒外に存在するものとの付き合い方を、「管理」とは別のところに求める向きもあるだろう。
*rashita.iconは後者の価値観を保持している。
とりあえず、「右手を上げる」のと「ホゲホゲについて考える」は、タスクとして同じように記述できるが、成果の保証という点で、言い換えればその内実の制御については同じではない。
rashita.iconが極めて限定的な意味で(つまり狭い意味で)タスク管理を捉えたときに、それがアイデアの扱いと異なると言及するのは、主に上記のような理由による。
takahrt.icon 今日も面白い文章を読ませて頂きました
その前提を受け入れてなお、「いや、着想ですらも意識の制御下に置くべきだ」と考える向きもあるだろうし、そのような制御の埒外に存在するものとの付き合い方を、「管理」とは別のところに求める向きもあるだろう。
takahrt.iconは前者の価値観に近いですね。
着想は、何もないところで天から降りてくるのではなく、外部にある情報がもとになって自分が気づくのだと考えられます。
情報整理したり、いろいろなものを見聞きする行動が、着想につながる事がある。
私は、着想も意識的に行動の一種としてできるようになりたい。
rashita.icon着想を促す行為を意識的に行うことはできると思います。しかし着想そのものは「よし、着想しよう」と思ってもうまくはいかない、という感じですね。
玄武.iconは、強いていえば前者ですが、「置くべきだ」と断定するほど強くはなく、「置きたいな」と希望するぐらいの価値観です。
そうしたときに、どんな風に向き合うかというと、おそらくは「直接」と「間接」という言葉で分けると思います。
直接的にタスク管理する、間接的にタスク管理する
*ちなみに発想法とは、そのような注意の操作を意識的に行う為のアプローチである。
そうして、着想は間接的にタスク管理することにあたり、けっきょくは、上記のことにたどり着く形をとると思います。
人間の体でいう意識して動かせる随意筋と意識では動かせない不随意筋をイメージします。
不随意筋である心臓や肺を直接鍛えることはできませんが、マラソンなどで心肺機能を高めることはできるようなものです。
GTDに寄せるならば「着想」は望んでいる結果であり、直接実行できないプロジェクトとして扱い、着想に対して次にとるべき行動を考える・選択するといったところでしょうか。
rashita.iconイテレーション的プロジェクト運用