目的と目標
https://youtu.be/rNT33nRY-nY?si=v0GVqbH3yEGiSimF
後半で目的と目標の話が出てきます
國分先生は、目的は手段を正当化するものとして、否定的でした。
目標については、ビジョン、広がりを持つものと語っていました。
目的と目標は「目指すもの」という意味では同じですが、目的が「最終的に成し遂げようとする事柄や目指すべき到達点」を意味するのに対して、目標は「目的を達成するための指標」を指します。 たとえば「健康になる」ことが目的ならば、「毎日1時間のランニングをする」が目標となります。
國分先生の語り口だと、目的>目標ではないですね。
動画の國分功一郎さんの目標としておっしゃっている「日本の思想の海外のプレゼンスを上げる」は、自分の感覚では「目的」に思えます。そしてこの目的を満足できる「目標」を設定しようとするかもしれません。それは、セルフマネジメントととしてそうしたいからするのであって、でも國分功一郎さんは、それを目的としてことに否定的で、目標と捉えることにされている。そのような整理と理解をしました玄武.icon 話は変わりますが、國分功一郎さんの「目的への抵抗」の帯には、「自由は目的を超える」という言葉があり、もし「自由とは必然性の洞察」だとすると、自由な行動も実はある必然性(こうありたいという願望が叶う必然性の洞察)に基づいているのではないか、つまり目的を持っているのではないかという疑問が浮かびます玄武.icon 自由は目的に抵抗する。自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある。『目的への抵抗』
rashita.icon各哲学者は、それぞれに語彙(言語空間)を持って議論を展開しているので、ここで使われている「目的」や「目標」が、僕らの日常的な「目的」や「目標」と違っていることは十分考えられます。あくまである表象を表すためのラベルだと、いったん考えるようにする。
そうすると、國分さんが何を否定し、何を肯定しているのかと言えば、
手段を正当化するものXは否定され
ビジョン、広がりを持つものYは肯定される
という構図が見えます。このXとYにそれぞれ、この時点では(あるいは國分言語空間では)「目的」と「目標」というラベルが与えられているわけです。
で、そういうラベルをはぎ取るならば、手段を正当化するもの→結果からのフィードバックを拒絶し、静的な構造を堅牢に保ち続けるものXは否定され、変化を許容する(ないしは呼び込む)ものYは肯定される、という構図は受容できるのではないかと思います。
哲学者の議論は、それぞれの言葉を自らで定義して使うので(そうすることが多いので)、それがなんと呼ばれているかよりも、そこで表されているものの性質は何か、を踏まえた方がよさそうだと思います。
玄武.iconおっしゃる通り、哲学の言葉は、文脈や哲学者によって定義が異なることが多く、固定的な意味を持つものではありません。その多様性が、哲学を豊かなものにし、新たな視点を開いてくれるように思えます。
哲学者の議論は、言葉の定義から深く掘り下げていくことで、より本質的な問いへと導いてくれるように感じます。言葉の表面的な意味にとらわれず、その裏にある概念や思想を探求する姿勢が大切ですね。
rashita.iconですね。
ぷーあるちゃ.iconここで書かれたことを踏まえて、タスク管理ツールの選択を例に目的と目標について書いてみたいと思います。
まず、目的を「タスクを管理すること」とします。
ここでは、ツールが指し示す範囲を、メソッドやツール(デジタル・アナログ)とします。
タスク管理をするためには、BツールやCメソッドがあるにもかかわらず、Aというツールが最強であるという主張がなされた場合、ある意味では手段を正当化していると思います。
その理由としては、BツールやCメソッドでも、タスクを管理するという目的を達成できるのに、選択肢を提示していないからです。
もしAツールでもBツールでもCメソッドでもタスクを管理するという抽象的な目的を達成できるのであれば、この場合、目的は特定の手段を正当化していないといってよいと考えます。
上記の場合、目的は手段を正当化していないので、消極的ではあるが、國分先生のいう目標といいかえることができるのではないでしょうか。
このことから、タスク管理を行うため、ツールを自分で選択でき、自分のこととして、タスクを管理するならば、それは、自由であり、ここでいう「タスク管理を行うため」は、目的ではなく目標ということができそうだと思いました。
タスク管理の話をするときによく起きるのは、同じ言葉でありながら、話者によって意味が違う場合があり、話が通じないということです。話者がどのような文脈でその言葉を使っているのか注意することが大切であると改めて思いました。
ところで、日常的な言葉を入口にしながら、どの文脈でどういう意味で使っているのかに注目しながら対話ができると建設的に話ができて楽しそうだとも思った次第です。
rashita.icon
日常的な言葉を入口にしながら、どの文脈でどういう意味で使っているのかに注目しながら対話ができると建設的に話ができて楽しそうだとも思った次第です
とても大切な指摘だと思います。
で、私が観察するに、一般的な人は(つまり、アカデミックな訓練を詰んでいない人は)自分がある言葉をどういう意味で使っているのかを意識していません。むしろウィトゲンシュタインによればそれはごく普通の発話だとなります(意味を考えるという特別の言語ゲームがあって、日常の言語ゲームはそういうものではないという感じ)。
いわば"意味"は発話者にとっては透明(あるいは自明)なものであり、当然のように他の人も同じ"意味"で使っていると想定し、文脈が異なる人が話しはじめると混乱が生じることが容易に想定できます(SNSの日常風景)。
一方で、「自分はこの言葉をどんな意味で使っているか」を自問する人(もちろん特殊な人)にとっては、意味は超越的に存在するのではなく、文脈によって振る舞いを変えることが理解されるので、「じゃあ、この人はこの言葉をどういう意味で使っているのか」という発想に至れる。文脈の違いを意識した上で、何かしら共有できる(あるいは理解可能な)会話が始まる。
実際、ここで行われた一連のやりとりも、たぶん140字制限では誤解の方が多くなったと思います。きちんと字数をとり、返信に時間をかけることができる、という環境が(あるいはお互いに最低限のリスペクトを持っていることが)建設的な会話を生み出す環境として大切な要素なのだと思います。