ブログ 2022.06-
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人工知能が大学を解体する②
ひさしぶりにブログを書いたので、いくつか反応もあった。共感するというのも多かった一方で、反論というほどでもないが、「人工知能でできることはどんどんやればいい」と言うけど、そのことによって仕事を失う人が出てくることを思うと素直に肯定できない、というような意見もあった。
分かるけどそれは結局のところ、後ろ向きの考えにしかならないと思うな。たしかに何らかの規制をかけて人間がこれまでやっていた仕事を護ることは、一時的、部分的には可能かもしれない。大学で、学生のレポートにChatGPTの使用を禁止する(できるかどうかは別として)ことによって、これまでのような成績評価で「仕事」をしてきた教員を守る、というような。
でもそんなことは、大局的には意味がない。産業革命以来過去二世紀の間、生産活動に次々に新しいテクノロジーが投入されて、従来の仕事に従事していた多くの人たちが失業してきたけど、その趨勢を止めることはできなかった。もっと最近、現在の人工知能以前の1990年代以降だって、パソコンが業務に導入されてやはり仕事を失う人たちがたくさん出てきたけれど、基本的にはどうしようもなかった。
仮に何か法律で護ってもらったとしても、自分の仕事が機械でも代替可能であることが分かった瞬間、人間はその仕事に対する誇りを奪われてしまうよね。やる気がなくなる。だって、お前なんか本当は要らないんだけど、特別に「保護」してやらせてあげる、なんて状況下に置かれたたら、人は自尊心を保てないよ。これが本当は、いちばん本質的なことだと思う。
そういう意味で、人工知能でできることは基本的に何でもさせればいいし、人間が「できる」ことは、まもなくどんなことでも機械はできるようになる、と考えた方がいい。それと同時に、そんなことで人間が存在する意味はカケラほども傷つかない、ということについても考えを共有しなければいけない。そうしないと「シンギュラリティ」とか言っているイカサマ師たちに騙されるからね。
そこでもう一つの反応は、何かが「できる」こと以外に人間が存在する価値をどのように理解すればいいのか?というものだった。これは重要な問いだ。人間は他の動物と違ってこんなことができるとか、機械と違ってこれだけは人間だけしかできないとか、およそそんな感じのセルフ・アイデンティティの形成が、これまでの近代ヒューマニズムを成り立たせてきたからね。
ぼくはこの「できる」、つまり能力中心の人間観から決別するにはどうしたらいいのかを考えている。と言っても、「できなくてもいいんだ」とか「人間は存在すること自体に価値がある」というような言い方では、間違ってるわけではないんだけど、やっぱり後ろ向きで、そんなんでは元気が出ないよなあ、と思う。だから言葉そのものを、ある意味根本から刷新しなければいけないのである。
なんだかんだ言っても、私たちは近代的な価値観を背負った言葉遣い(進歩しなければいけない、努力しなければいけない、etc.)に骨の髄まで浸透されていて、と同時にそれに対する補償としての存在することそのものの価値(進歩とか努力とかどうでもよくて、ただ生きること自体に意味がある、みたいな)にも影響され、それら両極端のセットの中で動いている、と思うからである。
「哲学とアートのための12の対話」では、次回は「人新世」がテーマなのだけど、8月の回は「(AIの)シンギュラリティについて考えてみよう」ということになっている。室井さんともこのトピックについてはこれまで何度もやりとりしてきたので、人工知能について今どんなふうに語ることが哲学的な思考でありうるのだろうか?ということを、その時には語ってみたい。
人工知能が大学を解体する①(2023.5.16)
しばらくこのブログを書かなかったのは、特に理由があるわけではない。忘れていたわけでもないのだが、少し間が空くと、何となく書きにくくなる。動画の配信の場合と同じである。そういえばこの数ヶ月、どちらかというと動画の方に気が向いていて、書くことがちょっとおろそかになっていた。それはたしかだ。
室井尚さんが3月21日に亡くなったこと、その前後のことや、彼と計画していた「哲学とアートのための12の対話」についても、ここではまだ書かなかった。学会誌に訃報や追悼のテキストを書いたり、「対話」については彼の亡くなる9日前の3月12日に銀閣寺でプレトークを行い、その記録は動画でもテキストでも公開しているのだが、そうした作業に追われてこのブログでの投稿に戻ってくる余裕がなかったかもしれない。ちなみにそれらについての情報は以下↓にあります。
また、4月30日には前衆議院議員の安藤裕さんが主催する「日本の未来を考える勉強会」に出演して、「資本主義の美学とは何か?」という話をした。そのことも動画では言及したが、文章化することをしなかった。
それら諸々についてはまた話をするとして、今回久しぶりにブログに書く気になったのは、世間を騒がせているChatGPTのことである。これはいずれ上の「哲学とアートのための12の対話」でも扱う予定の話題なのだが、いま書いているきっかけは、私が非常勤講師として授業を担当している複数の大学から、ChatGPTの「教育活用」について、注意喚起というか、指針のような連絡が来ていたからである。
それは、だいたいのところをまとめてみると以下のようなものである(「生成系人工知能」とあるのはほとんどChatGPTのことだと読み替えていい)。
レポートや課題における生成系人工知能の利用については、
・生成系人工知能を使ったら、何を使ったか、使用の範囲などを明記せよ。そうしないと、不正行為とみなす。
・生成系人工知能には誤った情報が含まれている場合があるので、どの程度正しいか、誤りはないかについて確認せよ。
・生成系人工知能で出力された内容には、著作権を侵害している可能性があるので注意せよ。
大体こんな感じの注意喚起なんだが、率直に言って「正気か?」と思った。
ChatGPTを使ってレポート提出する学生が、その使用範囲を明記したり、出力内容の誤りや著作権侵害の可能性をチェックしたりする気や能力があるなら、そもそも人工知能なんて使わないよね。どうしてこんな「不正行為防止」みたいな基準で対処できると思ってしまうのだろう? これまでの大学教育の慣習が根本から掘り崩されているということに、どうして気がつかないのだろうか?
大学は、そろそろハラをくくるべきなんじゃないかな。少子化による経営難とか、市場原理の導入とか、学長の独裁制とか、研究活動の管理強化とかいうナマナマしい事柄とは異なった、そもそも教育・知識形成の根幹に関わるレベルにおいて、人工知能あるいは人工知能的なるもの(つまり人工知能のように物事を考える人間たち)によって、これまで「大学」と呼ばれてきた制度は、根底から掘り崩されつつあるのである。
そのことについて考えるのは、とても重要なことだと思う。だから、ChatGPTによる大学教育への侵略は、そのことを考える絶好の機会を与えてくれると思っている。人工知能によって置き換えられるような知的操作は、すべて置き換えるべきだ。そんなことは人類にとって危機でも何でもない。それを危機だと思うとすれば、その人はこれまで人工知能のやるようなことしかやってこなかったからだ。人間は人工知能としてはとても能力は低いのだから、負けるのはあたりまえなのである。
また人工知能にはできないこと、人間にしかできないことを探したりそれにすがったりするヒューマニズムも、今やまったく無効なのである。機械は人間が「できる」ことは、基本的に何でもできると考えるべきだ。しかしそんなことは人間にとって脅威ではない。人間の存在する意味を、こうした何かが「できる=能力」に求める考え方が、根本的に間違っているからである。人工知能とは要するに「知は力なり」、つまり知を能力として捉える思想が、行き着くところまで行き着いて形を成した存在なのだ。
ChatGPT脅威論は、結局のところ「フランケンシュタイン・コンプレックス」(人工物がいつか人類を凌駕するという、ユダヤ・キリスト教的幻想)なのである。そんなことを知りもしない大学教育の現場をChatGPTが脅かしつつある今という時代は、人工知能(的なるもの)について、フランケンシュタイン的物語とは異なる思考、知識の本性についての哲学的考察を始めるための、絶好の機会なのである。
Artificial intelligence is destroying universities
What has inspired me to blog this time, after a long time, is the ChatGPT that is making waves in the world. This is a topic that I plan to address in the '12 Dialogues for Philosophy and Art,' but the reason I am writing now is that several universities where I teach as a part-time lecturer have contacted me with a warning, or rather a set of guidelines, regarding the 'educational use' of ChatGPT.
It is roughly summarised as follows ('generative artificial intelligence' can almost always be read as referring to ChatGPT).
For the use of generative artificial intelligence in reports and assignments,
- If you use generative artificial intelligence, state what you used and the extent of the use. Failure to do so will be regarded as cheating.
- The use of generative artificial intelligence may contain incorrect information, so check the extent to which it is correct and free from errors.
- The output of the generative artificial intelligence may infringe copyright.
The warning is roughly like this, but frankly I thought, "Are you out of your mind?"
If students submitting reports using ChatGPT were willing and able to clearly state the scope of use and check for errors in the output content and the possibility of copyright infringement, they wouldn't be using artificial intelligence in the first place. Why do they think they can cope with such 'anti-cheating' standards? Why can't they realize that the conventional practices of university education are being fundamentally dug out of the ground?
Maybe it's time for universities to get their act together. Not in terms of management difficulties due to the declining birth rate, the introduction of market principles, the dictatorship of the university president, or the tightening control over research activities, but at the level of the very foundations of education and knowledge formation, by artificial intelligence or artificial intelligence-like things (i.e. people who think like artificial intelligence), The system that has been called 'university' is being undermined from the bottom up.
I think it is very important to think about that. So I think the invasion ofZ university education by ChatGPT gives us a great opportunity to think about that. Any intellectual operations that could be replaced by artificial intelligence should be replaced. That is not a crisis or a crisis for humanity. If one thinks it is a crisis, it is because that person has so far only done what artificial intelligence would do. It is only natural that humans should lose, because they are not very capable as artificial intelligence.
Also, humanism, the search for and reliance on what artificial intelligence cannot do and what only humans can do, is now completely invalid. We should assume that machines can do basically anything that humans 'can' do. But such things are not a threat to humans. This is because the idea that the meaning of human existence lies in the ability to do these things is fundamentally wrong. Artificial intelligence is, in essence, the result of the idea that 'knowledge is power', i.e. that knowledge is a capability, which has reached the end of the road and taken shape.
The ChatGPT threat argument is ultimately a "Frankenstein Complex" (a Judeo-Christian fantasy that artifacts will one day surpass mankind). The time when ChatGPT is threatening the university education scene, which does not even know it, is the perfect opportunity to start thinking about artificial intelligence, to think differently from the Frankensteinian narrative, and to begin a philosophical reflection on the nature of knowledge.
資本主義の美学 5回目(2020.11.11)
2回ほど「科学」の話をした。
ほとんどの現代人にとって、「科学」はかつての宗教と同じものとして現れる。つまり「科学」は自由な知的探求というよりは、まず服従を要求する権威として経験される。学校の科学教育においてすでにそうである。何かが「科学的でない」と言うのは「間違っている」ということを意味するが、そのことを自分で吟味する必要はない。吟味はすでに他の(権威ある)人がしているからである。だからそのことを示す(権威ある)学術誌の論文を引用するだけでいい。
本来の科学的精神とは、批判に開かれた精神ということである。これほどまでに科学技術が社会や日常生活に浸透している世界では、人々は過去のいかなる時代よりも科学的精神が備わっているかというと、むしろその逆である。「科学」という名の下で行われる議論の多くは、単なる権威の調整である。つまりは政治である。真の科学者はそうではない。私が個人的に知る科学の研究者は本来の科学的精神を持つ人々なので、もちろん上のようなことは分かっているし、私がこんなふうに好き勝手を言っても、専門家でもないのに何を言うか、などとは決して言わない。
というのも真の科学者は、自分が科学のことなんて分かっていないことをよく知っているからである。哲学者も同様で、哲学のことなんてよく分かっていない。だから(職業的な意味では)専門家でない人から思いもかけない意見を聞くと、もしかしたらそうかもしれない、と考えこむことがよくある。そして何よりも、そうした意見を面白がることができる。ハンパな専門家は素人が変なことを言うとそれを面白がったりする余裕がなく、無視したり馬鹿にしたりする。それが、その人が知識人としてニセモノである証拠である。
さて、そもそも科学、科学者とは何なのだろうか? 科学とはサイエンスの訳語である。日本語の「科学」は普通は自然科学を意味するが、英語のscienceにはそうした意味以外に、「知」という広い意味がある。それはその由来が、ラテン語で「知」一般を意味するscientia(スキエンティア)という語に遡るからである。その意味で、scienceは古い概念なのであるが、scientistという語は新しい。それは産業革命時代のイギリスで、科学が生産活動や国力と密接に結びつきつつあるという社会的文脈の中で作られた造語である。
「科学者 scientist」という言葉は、ケンブリッジのトリニティ・カレッジで教えていたウィリアム・ヒューエル(Wiliam Whewell, 1794-1866)という人が造語し、1833年に初めて使用した。この言葉には、単なる自然の探究者という意味に加えて、その活動が新たな発明発見によって生産活動を促進し、したがって政治的に重要であり、人類の進歩に寄与するという意味が加わった。そういう仕事に従事する人が「科学者」である。したがって厳密に言えば、ニュートンは科学者ではない。だって17世紀にはscientistなんて概念はなかったのだからね。それではニュートンは何者かというと、「自然哲学者 natural philosopher」という呼び名の方が相応しい。周知のようにニュートンは自然哲学以外にもいろんなことをしているが。
Natural philosopher, naturalist, savant, 等々の言葉では意味が広すぎて、新たに登場してきた職業的な自然研究者を呼ぶのに適していないと考えたヒューエルは、scienceからscientistという言葉を造った。当時の知識人にとって、ぎこちない造語として響いたのではないかと想像される。だが時代が降って「科学者」が知識人のモデルのようになると、私たちは過去を全てこの概念を通して理解するようになる。こんな概念の存在しなかった18世紀以前の自然研究をすべて、現在私たちが立つ進歩の「最先端」へと至る原始的な段階として、先人として一応リスペクトはするものの、基本的には上から目線で眺める傲慢さを身につけているのである。
ところでヒューエル自身は何者かというと、やはり過渡期の人なので、彼自身現代と同じ意味で「科学者」であるとは言い難い。確かに自然研究者でもあったが、アングリカン・チャーチの牧師で神学者でもあり、大学では鉱物学や道徳哲学を教えていたという。現代ではこんな人はあまりいないかもしれないが、19世紀前半までは珍しくなかった。カントだって、今は多くの人が「哲学者」(つまり現代における専門化された、人文科学の一分野としての哲学の研究者)だと思っているが、それは後世の人が彼の批判哲学ばかりを取り上げるからである。カントは力学、自然地理学、人間学(文化人類学みたいな世界知)など多様な論文を書き講義をしていたし、リスボン大地震に衝撃を受けて地震の原因を究明する論文も書いた(今から見るとトンデモ仮説に見えるけどね)。
啓蒙思想家としてカントも人類の進歩を信じていたが、それは現代の私たちが信じている科学やテクノロジーの進歩と同じものではない。カントが考えていたのは認識と道徳性の進歩である。私たちの言う「科学」、つまり自然の認識も進歩するが、それは道徳性の向上を反映するものであるかぎりにおいて意味がある。それに比べると現代の私たちは、本当は人類の進歩など信じていないのかもしれない。科学とテクノロジーの進歩によって、生活は便利になり幸福は増進されるかもしれないが、それを享受する人間そのものは変わらないと考えているみたいだからである。
資本主義の美学 4回目(2022.10.26)
先週はお金の話をした。お金の価値の源泉は貴金属のような物質的実体であるという感覚は、ほとんど直感的(エステティック)なものであり、自明であるかのように感じられる。貨幣が実は債務と債権の記録であり、その債務が履行されるという「信用」を前提とした一種の情報であるということを理解しても、この直感は残り続ける。そして私たちは、あたかもお金そのものに価値があるかのように振る舞うことをやめない。それはちょうど、地球が太陽の周りを回っていることを頭では知っていても、やはり朝になると東から陽が昇り空を動いているように見えるという感覚は変わらず、また言葉でも「陽が昇る」と言い続けることに似ている。
いくら知識を得ても感覚や行動が変わらないとしたら、知識は無駄なのかというと決してそんなことはない。太陽が動いているように見えているが本当は自分が動いているのだと知ることは重要である。ロケットを作る時には感覚ではなく知識に基づいて設計しなければうまくいかないからである。それと同様に、大規模な経済的計画を立てる時には貨幣を実体としてではなく情報として理解しなければうまくいかない。自分の小遣いや家計のような限定された範囲ならお金を貴金属だと考えてもあまり問題はないが、国家の財政政策を考える場合には、そうした直感を延長すると致命的な誤りになる。
感覚が我々を誤らせるだけで、しかも知識によって訂正もできないとしたら、そもそも感覚は何のためにあるのだろうか。これは美学の課題である。感覚は誤らせるとデカルトは考えたが、私はむしろスピノザのように、感覚には誤りというものはないと考える。私たちが現実世界とは合致しない(その意味で「誤った」)感覚を抱くのは、なぜそんな感覚が生じるのかという理由を私たちが知らないためである。つまり問題は誤謬ではなく、むしろ無知なのである。その無知はどこに起因するかというと、私たちの身体がそもそも限定されたものだからである。
だから、本当は〇〇であることが分かっているのにどうしても△△に見える、という感覚は、単純に「誤っている」のではなくて、私たちの身体がそういう錯覚を作り出していることを意味する。つまり、感覚は私たちを欺いているのではなく、むしろ「私たちの身体は〇〇を△△として表象するような仕組みを持っている」ということを教えてくれているのである。ただし、感覚のこの「教え」を理解するためには、世界は本当は〇〇であるという理性的認識を持っていなければならない。だから正しい知識を持つことは、感覚を反省的なものにするために必要なのである。知識と感覚は相反するのではなく、知識によって感覚は鍛えられると考えるべきである。
もしも、何かを知ったために感覚が鈍くなった、つまり知識が感覚の力や想像力を阻害すると思われるとしたら、それはその知識が本当は知識ではなくて、知識の姿をした粗野な感覚にすぎないということを意味する。科学的知識が夢やファンタジーを駆逐したというような定型句は大抵そんなことだ。昔は月に兎がいると想像していたのに、実際にロケットで月に行ったみたらただの岩石だった、というようなことは、知識と想像力との関係について本当は何も重要なことを言っていない。「月はただの岩石」などというのは科学的知識でも何でもなくて、感覚的印象に基づいた非常に程度の低い想像なのである。
それに比べたら、貨幣が実は債務の記録であるという知識は、それに対応する直感に置き換えにくいので、そのことについてよく考え、それでもお金はそれ自体が価値を持つ実体であるかのように見えるという自分の直感と突き合わせてみることから、学ぶことができる。自分の身体の周りに展開されるミクロな動きと、身体的には直感できないマクロな運動、日常生活や人生の時間のスケールで測ることのできる時間内での現象と、地質学的、宇宙論的な時間スケールにおける現象──それらは確かに何らかの仕方で繋がっているはずなのに、まったく別な論理で作動しているように思える。そこに驚異の念を持つのが哲学である。
この意味における哲学とは、専門的な一学科としてのそれではなく、経済についての知識、自然についての知識、この世界についてのすべての知識をその始まりにおいて駆動する力のことである。
今日の講義では銀行の話をします。
資本主義の美学 3回目(2022.10.22)
美学会全国大会とかあって慌ただしく、なかなか各回ごとに定期的に動画版、テキスト版を公開できていなかったが、講義の方は2回目、3回目でマックス・ウェーバーの目的合理性、近代経済学の基本前提、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』における非合理な形而上学的信念(カルヴァンの「予定説」)と資本主義の心的特性(勤勉、禁欲、蓄財の肯定等)の関係について話をした。
同志社大学は組合派のプロテスタントだけれども、学生がみんなクリスチャンというわけではないので、「予定説」といっても馴染みがない人も多い。宗教なんて過去の遺物と思っているマテリアリストの現代人は、なんやかんや言っても死んだら終わり、と思っている人が多い。一方キリスト教では死んだ後自分がどうなるかが、とても大事である。死んだ後に天国に行って永遠の生を受けるか、地獄に落ちて魂まで焼き尽くされ消滅するか、これが気になるので、天国に行くためにはどのように生きたらいいのかと悩むわけである。
カトリックでは、神の教えに従って正しい生活を送ることが天国への近道となる。で、その「正しさ」とは何なのかを知るには、もちろん聖書も大事なんだが、昔は聖書はそこら辺にころがってないし、そもそも字が読めないとアクセスできないし、読めても簡単には意味が分からない(預言者もイエス様も、面白いけど何かよく分からんことばっかり言うから)。そこで教会を通して生活の指針を得ることになる。それによると勤勉、禁欲は悪いことじゃないのだけれど、たとえば蓄財はダメ。地獄に落ちるよ、お金が儲かったら寄付しなさい、ということになる。そして教会の言う通りにすれば、天国に行ける。つまり親の言うことをきいたら褒美がもらえる子供とおんなじで、ガマンしてでもいい子にしてたら、後でいいことがあるよ、というわけ。
それに対してプロテスタント、とりわけ「予定説」では、ある人が天国に行けるかどうかはじめから神様は決めていて、でも人間の側からは自分が救済されるかどうかは絶対に分からない。この世でいくら頑張っても神様の決定を変えることはできないと言う。ものすごい理不尽なことだけど、この方が、神様は徹底的に超越的な存在ということになるね。子供がいくら頑張っていい子にしても、逆に悪さをしても、褒めも叱りもせずただ無表情に見ている厳しい父親を想像してみると、とても怖いでしょ。今どきだと、ほとんど虐待と言っていいな。
で、もしも自分が救われるか地獄に落ちるか絶対に分からないとしたら、そこから生活のどんな指針が出てくるか。これは合理的に決定できないのである。いくら努力しても報われるかどうか分からないような状況だと、そこから「どうせ分からないんだから、好き放題してやれ」ということにもなるし、「分からないからこそ聖書の教えに従って最大限努力すべき」ともなる。それは、現代の無神論者が「どうせ死んだらオワリなのだから、人生なんてどうでもいいや」と思うのと「どうせ一度限りの人生なんだから、自分なりに最善の生き方をしたい」と思うのと、論理的には同型なのである。つまり、合理的な行動指針が不合理な仕方で決定されるということである。
目的合理的な行動、つまり目的のために最適な手段を選択することは、合理性の中にいれば自明のことに見える。でもなぜその目的が設定されているのか、また、なぜ非合理的な行動よりも合理的な行動の方がより善いのか、という根本の理由は、合理的に説明できない。合理性と非合理性は単純でクリアな二項対立なのではなくて、その根底ではウロボロスの蛇みたいに循環している。その意味ではプロテスタンティズムの倫理と脱宗教的な現代人の世界観はあまり変わらないというか、逆に言うと自分は宗教なんか関係なく生きていると思っている人も、実はプロテスタントということになる(「隠れキリシタン」? いやそれだとカトリックか)。
プロテスタントのもう一つの重要なポイントは、教会を介さず個々人が聖書を通じて直接神様やイエス様の言葉と向き合う、ということにある。そのためにはみんなが字が読めて、同時に聖書が広く普及しなければいけない。しかも昔の写本みたいな高価で重たいもんじゃなく、ポケットに入るようなサイズのものとして。そして、識字率の上昇と印刷術の発展によって、実際そのようになった。この、個々人が聖書を通して神と結ばれるという考えは、グローバル資本主義の現代世界ととても相性がいい──ほとんどの人々がいつでもどこでもスマホを見ている今の風景を見ていると、本当にそう感じる。つまり、宗教心があるかないかとか、見ているのが聖書かスマホかということは、あんまり関係ないんじゃないか、と。
美学会・会長退任の挨拶(2022.10.16)
本日、美学会の総会と会長交代の挨拶があり、新会長となった吉田寛さん(現在ヨーロッパ滞在中)のメッセージを代読し、その後に辞任にあたっての所感を述べました。以下はそれに若干加筆しテキスト化したものです。
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会長退任の挨拶(2022年10月16日 於京都工芸繊維大学)
美学会会長を2016年から2期6年務めてきたが、今回3年ぶりに対面で開催された美学会全国大会(京都工芸繊維大学 2022年10月14-15日)をもって退任した。
ぼくは京都大学文学部美学研究室の出身で、カント研究から出発し、その後1990年代には現代哲学を中心に研究してきたが、2000年にIAMASに着任する前後から、メディアアート、美術展の企画、批評誌の出版、などの実践的な活動に深く関わるようになっていった。多忙のため、数年間は美学会の例会や全国大会にも顔を出すことができなくなってしまい、(今だから言えるのだが)2005年頃には美学会を退会しようかとすら思っていた。
ところがその頃、自分の古巣である京都大学の美学研究室から誘いを受け、かなり迷ったがお受けすることにした。アジアのメディアアートに焦点を当てた2006年秋の「岐阜おおがきビエンナーレ」の企画でIAMASにおける仕事も一段落したこと、また数年間デジタルテクノロジーの可能性について考えてきたが、2000年以降の世界の変化を見てきて、メディアやテクノロジーそれ自体をもっと根底的な美学的・哲学的なレベルから再考する必要を感じたからである。
その頃どこかで、美学とは「おじいちゃんのコート」みたいなものだという喩えを使った。古くてどっしりと重いが、捨てないで使えば雨風からしっかり身体を護ってくれる、というような意味だった。2000年以降の目まぐるしく変化する世界、「変わらねばならならい」という強迫が支配する世界においては、そこから身を護り、正気を保つために、「美学」というコートは役に立つような気がした。
現実的状況としては、京大美学の教授になったので、美学会との距離は当然急に近くなり、委員や副会長を務めてきた。その後、京都大学文学研究科は2016年に退職し、こころの未来研究センターに異動したのだが、ちょうどその年に美学会会長に選出された。美学の教授ではなくなったので選ばれるとは思わなかったのだが、きわめて有能な本部庶務幹事の福田安佐子さん、そして協力的な委員の皆さんに支えられて、何とか一期務め上げることができた。
2019年成城大学での全国大会は台風19号(ハギビス)のために中止となったが、合同委員会と選挙は実施され、そこで第2期目の会長に選出された。美学会の会長はそれまで1期3年で交代するのが慣例のようになっていたので、これはさらに思いがけない事態であった。台風のせいだろうか? そして年が明けるとまもなく新型コロナ感染症の騒ぎが始まり、世界全体が、それこそ誰も予想していなかった非常事態に翻弄されるようになる。
そんな中でもオンラインで例会、全国大会、委員会などの学会活動は何とか継続し、丸善出版から『美学の辞典』を出版したり(わずかだがその印税が美学会の財政に貢献できた)、美学会ホームページのリニューアルなどを行うことができたのも、ひとえに多くの会員の方々のご協力のおかげである。お世辞ではなく、支えてもらったという感覚が強い。
現在も続いている非常事態は人々を扇動し、正気を失わせる。とりわけこの2年半近く、私たちは不安に煽られて感覚が麻痺してしまい、自分たちがいかにバカげたことをしているのかということに、気づくことすら困難になった。感染症や戦争ばかりではなく、1990年代以降続いてきたグローバリズムや新自由主義的な改革の嵐は、学術や文化にも容赦なく襲い掛かり、美学を含む人文学の危機が叫ばれている。
でも私は、深刻な危機を叫びすぎるのはよくないと思うのである。このような時代には、まず正気に戻ることが必要である。美学という「お爺ちゃんのコート」に護られて考えるのは、このような時代だからこそ、正気を取り戻すためには重要であり、健全なことではないかと考える。人文学の危機と言われるが、人文学的な探究や知識というものは、どんな状況でも人間にとって必要不可欠なものであり、予算配分とか組織改変とかで一時的な変化は起ころうとも、本質的な意味では、絶対に滅びたり衰退することはあり得ない。
「そんな知識が何の役に立つののか」などと問われたりするけれども、役に立つか立たないかと問うこと自体、根本的に間違っているのである。なぜなら私たち自身の生を含め、この世界において真に重要なものは、役に立つ立たない、手段/目的といった基準で測れる合理性の「外」にあるからである。そして人文学の中でも、そうした「目的なき合目的性」を真正面から考察できるのは美学なのである。これからも私は一会員としてこの学会に貢献してゆくつもりなので、美学会会員の皆さんは、自信と誇りをもって研究その他の活動を続けていただきたいと心から願っている。
資本主義の美学 2回目(2022.10.05)
今日は、マックス・ウェーバーを中心に合理性、目的合理的行為と資本主義、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』についてガッツリ講義しようと思ったのだが、いよいよ本題に入ろうと思ったら終了のチャイムが鳴った。
それはもちろん、たまたま話題にしたトピックから脱線したり雑談してしまうからで、もちろん自分のせいであり、それがライブの講義のいいところだとも思うのだが、同時に、そもそもこんな週一90分の講義では所詮なんにも喋れないよ、とも感じる。哲学にとって、カリキュラム上の講義時間とかそもそも何の意味もない。無理やり合わしてあげているだけなのだが、そこだけが講義とということになってしまったら、大学で哲学を教えるなんて無意味なんじゃないか‥‥。
それはともかく「合理性(rationality)」である。これは自明の概念のように見えて、まったく自明ではない。合理を徹底的に極めると、非合理に行き着く。そもそも自然は合理的に働いているのだろうか? 違う。自然はただ機械的に作動しているだけである。それに対して合理性とは理性(ratio)に従うという意味だから、自然はそんなもんは知らんし、そんなもんに従う義理はない。だから人間が合理の追求を極めると、それは自然から離反してゆく。けれども人間存在は自然の一部だから、自然から離反したら自身が死んでしまう。生きるために効率最大化を図ったはずなのに、まさにそのことによって滅びてしまうのである。
マックス・ウェーバーは人間が行う社会的行為の類型として、目的合理的な行動とともに、価値合理的行為、感情的行為、伝統的行為を考えた。このうち、感情的(affectional)行為について、授業の中で少し展開した(「展開した」というともっともらしいが、そこから思いついた雑談をしたということだ)。とはいえ美学的確な観点からすると、この感情的行為がいちばん重要であることは確かだ。感情的と言っても”affectional”というのは、内部から湧き上がる情念ではなく、外から影響され誘導される感情ということである。
私たちは自分では合理的判断をしていると思いながら、その本当の動機は上の意味で感情的である(つまり外部から影響を受け誘導されている)ことが多い。それをついつい自分の自然な感情だと思ってしまうのは、単にそれが外部から影響されて生じた経緯を知らないか、あるいは忘れてしまっているからなのである。だからその経緯を知ることは大切なことであり、哲学的な勉強をするというのは究極的にはそういうことだと思う。だがそれは、大学で週一回90分の講義を受けてもなかなか実現できることではない。
しかしまあ、ないよりはあった方がいい、くらいのところかな。とりあえず今のところは。いつクビになるかわからないけど。
故意の無視、あるいは転向の季節(2022.10.01)
イギリス人の循環器医アスィム・マルホトラ(Aseem Malhotra)は、糖質の摂取過剰など現代食の危険について警鐘を発してきた著名な医者であるが、近頃 Journal of Insurin Resistance という医学雑誌に発表した論文:
Vol 5, No 1 (2022) - Review Article
Curing the pandemic of misinformation on COVID-19 mRNA vaccines through real evidence-based medicine - Part 1
Vol 5, No 1 (2022) - Review Article
Curing the pandemic of misinformation on COVID-19 mRNA vaccines through real evidence-based medicine - Part 2
において、新型コロナ自体のパンデミックではなく、新型コロナに対するワクチン(と呼ばれているもの)に関する誤情報のパンデミックを治療することの方が、はるかに重要であることを論証している。そこで、mRNAワクチンの接種は、高齢者や慢性疾患の患者をのぞけば、メリットよりも弊害の方が多いことを、客観的なデータを元にして啓発している。同誌のオンライン版にはYouTube動画へのリンクもあり、そこでマルホトラ博士自身が自分の論文のポイントを解説している。https://insulinresistance.org/index.php/jir ワクチン接種の危険を訴える専門家たちは、多くの国の(とりわけ日本の)メインストリーム・メディアからは故意に無視されてきたが、今回の感染症騒ぎの初期から、日本を含む世界中で活発に発言してきた。だがマルホトラ博士に関して注目すべき点は、彼がきわめて有名な医師であり、そして以前にはワクチン接種に積極的な立場をとり、人々の行動に大きな影響を与えてきた人物であるということである。彼はなぜ、自説を180度転換したのであろうか?
彼はいくつかの講演やインタビューにおいて、ワクチンの弊害を疑わせる事実に関して専門家たちが「故意の無視(wilful blindness)」に陥ることについて語っている。そして自分自身もワクチンの有害性事例を「故意に無視」していた、と告白する。この wilful blindness というのは法律用語で、それを知っていることが自分にとって不利になるような事実に対して、わざと気づかないふりをすることを意味する。だがこの「わざと」がどれくらい意識的であるかについては、程度の差があるだろう。
医学研究者が行う「故意の無視」の原因としてマルホトラ博士が指摘するのは、ワクチンに対してネガティブな結論を出す研究を行うと、製薬会社からの資金が削減されたり停止されたりする可能性があることである。だが、個々の研究者がどこまで「この事象について調べると研究資金がなくなるから、これは見なかったことにしよう」と意識しているかは分からない。事態はもっと複雑で、自分が無視したということを無視し、記憶から抹消しているかもしれない。また専門的研究者というのは一般に政治的にはナイーブなので、その分野の慣習や周囲の同僚の意見に従っているうちに、知らない間に「故意の無視」に陥っている場合もあるかもしれない(「知らない間に故意」というのは矛盾だが)。
故意の無視という状態から目覚めたきっかけには個人的な悲劇がある、とマルホトラ博士は語る。健康だった彼の父がこの7月に、73歳で亡くなったのである。けれども死の直後はまだ、彼は父の死をワクチン接種と結びつけて考えることはしなかった。けれども死体を解剖してみると、循環器の専門家である彼にとって、それまでの父の健康状態からは考えられないような血栓を発見したのである。
そうした個人的な経験がきっかけになったことは嘘ではないと思う。また、ワクチン接種の方が新型コロナ感染よりも危険であるという現在の彼の主張が、専門家としての良心からなされていることも疑うつもりはない。けれども同時に、次のような事情も十分考えられる。ワクチンの有害性を示す統計的なデータや医学的な研究は、どんどん蓄積しつつある。現在はまだ専門的な雑誌や一部の一般誌(日本では『女性セブン』や『プレジデント』)に留まっており、メインストリームの新聞やテレビではワクチン被害の現状を示す情報は抑制されているが、まもなく押し留めようがなくなるポイントが来ることは確実である。
これまでワクチンを推奨していた専門家や政治家はどうすればよいか。わたしがもしその立場に置かれたら、自分自身の良心という動機と同時に、どこまで意識するかはともかく、損得計算もしてしまうのではないかと想像する。マルホトラ博士のように過去の自分の発言が誤っていたと認めるのは、非難を受け自分の評判を落とすダメージを伴うが、もしもそれに固執し意見を変えなければ、やがて全体的なターニングポイントが到来したとき、もっと壊滅的なダメージを受ける。そうであればなるべく早く「転向」しておいた方が、まだ若く著名人である彼にとって、相対的にダメージを少なくすることができる。
こんな言い方は皮肉すぎてひどい、と感じる人がいるかもしれない。誤解を避けるために言えば、わたしはマルホトラ博士のような人を尊敬する。たとえそうした計算があったからといって、それはその人が良心を持たないということにはならないと思う。世界には良心のみに基づいて行動する高潔な人物ももちろん存在するが、私たちのほとんどは100%倫理的に生きることなどできず、良心と計算とはいろんな度合いで混在しているのではないだろうか。だからこそ私たちの多くは「故意の無視」のような状況に陥ってしまうのである。
だがそうだとすると、そこから地獄のような恐ろしいケースも考えられる。つまり、もしも「転向」するよりも、虚偽と知りながら自分の「正しさ」に固執する方が、自分にとって利益になるような状況であればどうなるか。たとえばすでに高齢で、近い将来自分が専門家や政治家として失脚するとしても、その敗北の瞬間まで嘘をつき続けた方が、全体としては自己利益が多いと考えられる場合である。それは滅亡に向かう絶望的な行進であり、その本人が滅びるのは勝手だが、それが権力や影響力を持つ人物であった場合、多くの人々が道連れにされてしまう。
このことを想像するのは心底恐ろしく、信仰心の乏しいわたしも、神が全てをご覧になっていますように! と叫びたくなるのである。
資本主義の美学 1回目(2022.09.28)
同志社大学文学部の講義「資本主義の美学」2022年度の初日であった。登録している受講者は29名、文学部が主だが他学部からも若干名。その他、大学院、他大学、アーティストなどモグリ数名。昨年と異なり、今年は比較的小さい教室で、雰囲気は良くなったと感じる。後ろの窓から大文字山が見える。
教卓には、引き続き感染症対策を徹底せよというシートがあり、学生にはマスク着用をすすめるよう書いてあるが、これは「屋内でも会話をほとんど行わない場合は着用の必要はない」という現在のガイドラインに矛盾する。いったいどうせえと言うのか、と思ったが受講者は終始100%マスク着用だったので何も迷う必要はなかった。
教員はマスクなしで講義してよくなったので、半分だけ正常化したという感じだ。とにかくマスクのことはしばし、少なくとも講義中は忘れていたい。学生もしていないものと想像しつつしゃべる(無理だが)。
さて今日は自己紹介と講義全体の導入を少ししただけだが、その中で、なぜ美学の先生が資本主義に言及するのかということについて話した。美学、哲学、芸術の勉強に関心を持つ人は、経済や政治のことはあんまり考えたくない、というタイプの人が多い。学生も先生も、ぼくの周りの人たちもそうだし、ぼく自身もそうだった。
2000年くらいまでは、経済や政治のことは新聞や雑誌、テレビの情報くらいで十分だと思っていた。またネットのなかった時代にはそうしたマスメディアの情報レベルを越えて自分で調べるのは、けっこう手間のかかる大変なことでもあった。
新聞もテレビも私企業だから、利害に影響されて伝える情報に歪みはあるとは思っていたが、たくさんの人が見ているのだから、そんなにひどい情報操作はできないであろう、白のものを黒とはまさか言わないだろう、くらいに考えていた。
しかし2001年の9.11、その後イラク戦争へと傾れ込む時期の「テロとの戦い」報道を目にして、これは何かが根本的におかしいのではないかと感じ始めた。それでもマスメディアに対する信頼をまったく失ったわけではなかったが、それから10年後、2011年の3.11以降、マスメディアは白のものを黒と言うのだと実感した。地上波デジタルへの切り替えとともに、テレビを観るのを止めた。
それで、信頼できると思える人や情報を自分で探すようにしてきた。もちろん社会科学の研究者ではないので、経済や政治に関するぼくの知識は不完全であり素人目線である。けれども素人の目線は実はとても大事なのである。社会が高度に複雑化してゆくにつれて、専門家やインサイダーには見えないことが増えてゆくからだ。
知識の不足が蒙昧を結果するというのは17-18世紀の古典的な啓蒙主義の世界である。その場合には教育、知識の普及が人間を解放する。大学もそれをモデルに発展してきた。けれどもマスメディアとネットの発達した20世紀後半以降においては、むしろ知識の過剰が蒙昧状態を作り出す。けれどもそこから抜け出すための新しい啓蒙のモデルはまだ生まれていない。
今年度は普通に対面だけで講義できるのでそれだけでもいいのだが、昨年のようにネット配信も楽しみにしてくれる人がいるので、水曜日の内容を思い浮かべながら、週末に時間を作ってまた動画を作ろうと思う(とここで宣言して自分を縛らないと、面倒くさくなってサボってしまうから)。このブログ記事はそのために講義当日書き留めるメモみたいなものである。
大学は誰のものか?(2022.09.27)
大学は、誰のものか?
大袈裟なテーマではあるけど、ぼくも自分の職業生活を30年以上大学の教員として過ごしてきたわけで、ここで自分なりの見解を述べても別にバチは当たらないと思う。
大学とは、Studentのものである。Studentというのは教員に対する学生という意味ではなく、誰であれStudyする者、「探求者」という意味である。だからいわゆる学生も教員も同じように、知的探求者という意味ではStudentなのである。大学とは、そうした探求者の共同体である。反対に、学生でも教員でも探求しない人、もはや探求することを止めた人、探求とは別の関心で動いている人は、Studentではない。
そういう共同体が社会に中に存在することが、社会全体にとっても非常に利益のあることなのである。その外とは違う論理で動く知的共同体があり、それが大学の外の社会からは隔絶されつつ行き来し合う、と言うのが健全な国家のあり方だと思う。社会一般の論理とは異なる論理が支配するのを許すのが、大学の自由ということである。大学はアジール(避難所)としても機能したが、そうした場所があるのが、社会一般の大きな活力となってきたのである。
けれども今の大学はハッキリ言って、刑務所あるいは収容所のような施設になっている。あからさまな囚人服や監禁室のようなものがないだけで、学生にも教員にも、思考の自由を奪う規律と訓練が徹底されている。大学と、大学の外の社会との境界はもはや存在しない。大学はもはやアジール、駆け込み寺ではなく、経済機構の一部に組み込まれてしまった。
大学をstudent、私たち探求者のために取り戻さなければ、大学はもはや大学ではなくなる。名前や建物だけ立派で、命のないゾンビになってしまう。つくづくそう思うのだが、現実の大学を見ると、暗澹たる気持ちになる。こんな場所で知的な探求なんて可能なのだろうか? そもそも知的探求とは何かを、話題にできるような環境なのだろうか? 学生からも教員からも、いかにして自由を奪うかという「改革」しかされてこなかったのではないか。
そして、ぼくのような世代の教員がこんなことを言うと、昔の世代が古き良き時代のノスタルジーを語っている、みたいに言われる。今はそんな幸せな時代じゃないんだよ、おじいちゃん、みたいに。でも実はこういう言い方自体が、暴力そのものなのである。何でも時代や世代のせいにするのは、国を破壊するプロパガンダである。大学がそもそもどういう組織であるべきかについて、時代なんてまったく関係ない。人類が文明を持って以来、知的探究を護るという組織は何千年もの間、社会の中で大切な役割を占めてきた。
とにかく、明日から同志社大学の講義が始まるなー。好きなことを言える雰囲気であればいいのだけど。いつ辞めせられるのか分からないけど、自決覚悟で臨むしかないな。
ウソとは何か?(2022.09.26)
政情不安定な時代には、意見の対立する人々どうしが「お前たちはウソをついている! 」と互いに非難し合い、攻撃し合う。今私たちが生きているのは、まさにそういう時代である。その中で人々は、どちらを信じどちらに付くべきかと迷うが、たいていの人にとって判断すべき材料は限られている。それで結果として、より多くの人が支持している立場の方に傾くことになる。自分が少数派として孤立するのは耐えられないからだ。
生物としての人間にとって、それはある意味仕方のないことである。進化の過程で、正しい立場を自分で判断して選ぶより、より多くの仲間が支持する立場に与する方が、生き残るチャンスが多かった。逆に言えば、今私たちが生きているということは、そうした行動を選択したご先祖様たちが、生き残ってこられたからである。私たちが自分の理性で判断するより、世の中の大勢に従うように導かれるのは、進化の必然ということである。
マクロ的には確かにそうかもしれないが、進化というのはそんなに単純なものではない。支配的な多数派の中には常に、真逆の方向性を持つ少数派が生まれる。それは単なる偏差やノイズではなくて、集団の全体的な発展にとって本質的なことかもしれない。多数派と少数派とは、ある種のエコロジカルな関係、闘争であると同時に均衡のような関係を持つだけでなく、少数派の異端的認識が多数派の主流の認識の中に、テレポーテーションのように環流してくる過程があるのではないか。
哲学者は常に少数派だが、哲学の存在理由はそうしたところにあるのかもしれない。もっとも哲学は存在理由があるから存在しているわけではないが。
先日の日本記号学会の研究発表を書きながら、「ウソ」とは何だろう?と考えていた。ここで言う「ウソ」とは、人が自己利益のために知りながら事実と反対を言うということではなくて、むしろ人がそれを心の底から信じ、本人にはそうとしか思えないような虚偽の認識のことである。それでスピノザを参照した。スピノザは、虚偽とは自己認識の欠陥だと考える。つまり、人が虚偽の認識を持つのは、単に事実を知らないということだけではなく、自分がなぜそうした虚偽の認識を持つに至ったのかを知らないからなのである。
陰謀論者たちの考えるように、もしもこの世界を上位から操っている支配者がいるとすれば、彼はこうした人間的認識のメカニズム(とその弱点)を知り尽くしているのではいかと思う。そうでなければ支配は完遂しない。つまり、支配者は何よりも哲学に通暁しているはずなのである。哲学というのはたんに少数派の、牧歌的で無害な知識や教養、といったものではない。ぼくには哲学が、心底恐ろしい。それは安心安全な知識ではなく、そこには途方もない力が隠れている。核兵器のように、私たちを壊滅させるポテンシャルを持っているからである。
マスクを外すことについて(2022.09.25)
この前の投稿で、今週から始まる同志社大学の講義でも去年のようにマスクして喋らなければならないのか、イヤだなーという意味の投稿をしたら、同志社大学教授の佐藤守弘先生から早速リプライが来て、同大学ではこの6月に感染症対策に対するガイドラインが改定され、教員はマスクしないで講義することができるようになりました、ということを知った。
まあ、よかった。けれども素直に喜べないのは、たとえガイドラインが改定されても、多くの人はマスクし続けるのではないか、と思うから。家近くの高校は、登下校でのマスク着用指導はもうなくなったと聞くが、依然としてほとんどの生徒も教員もマスクして登下校している。先月東京で出席した政府関係の会議では、事務局が配布した会議の実施要項には会議におけるマスク着用項目はなくなっているのに、ぼく以外の全員マスクしていた。
こういう状況を指して、だから日本人はダメだとか同調圧力に弱いとか、騒ぐ人たちもいる。その気持ちは分からんでもないし否定はしないけど、そういう批判ははたして、この国のリアルな状況に触れているのか。マスクに感染予防効果がないことは数値的に明白だが、それを示しても多くの人にとって何かが変わるのか。感染症に関してどんな立場を取ろうとも、自分と異なる意見の国民を一律に「バカ」と決めつけるのは、実は自分自身も背後からそのように分断を煽られていることを知らない点において、結局同じではないのだろうか。
2年前のコロナ騒動の最初の頃、これは何だか世界史的に大きな出来事が起こりつつあるのではないかとぼくは感じて、恐ろしくなり、行政やテレビや新聞の情報がまったく信じられなくなり、騙されるのは嫌だから免疫学や感染症のことをかなり勉強して、自分自身はPCR検査もワクチン接種も一度も受けなかった。だからといって反コロナ派とか反ワクチン派というわけではまったくない。むしろ、この「派」という考え方がクセモノだと思ってきたのである。
今の状況ではまだ、この話題をネットのこうした場所で書くことすら、大変気を使うことは確かだ。多くの人が、病気や死に対する不安を掻き立てられ、正常な判断ができなくなっている。不安に煽られた人たちが必要としているのは、客観的知識や合理的判断ではなくて、治療や癒しである。けれども不安にとらわれた人たちは自分たちが病的状態にあるとは思っていない。そういう人たちを単にバカと決めつけても、それによって目覚めるなんてことはけっしてない。
啓蒙はもはや不可能になったのだろうか。だとしたら、こんな状況下において大学で講義する意味とはいったい何なのか。これは挑戦だね。楽しみだ。と思うことにしよう。
資本主義の美学(2022.09.24)
急にまたブログを再開したりして、どうしたんですか?と言われた。そういえばこれもあったな、と思いついただけで、特に理由はない。まあ強いていえば寂しいからかな。
ところで来週(9月28日水曜日)から、同志社大学で「資本主義の美学」を開講します。現在レギュラーで行っている講義は、前期の京都精華大学「日本の美学」と、後期のこれしかない。
去年から始まった学部の講義で、大きな声では言えない(言ってはいけないらしい)が、同志社大学の学生以外の聴講も認めている、というか本当は大歓迎なのだけど、大きな声では言えないらしいので、「黙認」ということにしている。もともと京都大学文学部で講義していた時からの方針で、大学での講義というものに関するぼくの根本的な考え方から出てきていることだから。
要するに大学の講義は基本パブリックドメインだということだ。正規の学生は授業料を払っているのにおかしいではないか、という人もいるが、授業料はその大学の卒業資格や学位を取るために払っているものであって、講義は特定の対価に対して与えられるサービスではない。大学が講義を提供するのは公共的な活動だと思う。だからネットなどではその考えを公表してきた。
こんな考えが今の時代に合わないことは知っている。しかしぼくはそもそも「今の時代」なんて認めていない。今の時代に生きていないことが今の時代に自分が存在する意味であるような気がする。こういう方針で三十年講義してきたが、これまで大学から文句を言われたことはない。でも同僚の教員たちからは何度か「大丈夫ですか」「やめた方がいいよ」と言われたことがある。つまり忖度、自己規制である。
大学の人文学系の講義って、そもそも何のためにあるのだろう? ぼくは国のため、公共のためだと考えている。先日の日本記号学会で、横浜国立大学ではシラバスにその講義がSDGsのどの項目に役立つのかを明記しなければならなくなったと、室井尚さんが言っていた。同志社大学のシラバスはまだそこまでは要求されないが、時間の問題かもしれない。それで室井さんの元同僚はシラバスに「本講義はSDGsの全ての項目に役立つ」と書いたが、別に何も言われなかったそうだ。
僕も十年くらい前、京大の全学共通科目でシラバスの詳細な記述が義務化され、その範例として有機化学の講義のシラバス例が示されて、こういうふうに書くようにという指示が来た。それで、そのシラバス例をコピペして、有機化学の用語の部分だけを美学芸術学関係の用語に置き換えるという、ふざけたことをして提出した。さすがに教務から何か言われるかと内心期待していたが、大学からは何も言われなかった。
拍子抜けしたので、その元の雛形と自分のシラバスを、このブログで公開した。教務課にもぼくのブログを読んでいる人がいる_のを知ってたので、何か言われることを期待して。デリダ哲学を勉強しているゼミの院生が、これこそ脱構築ですね!と褒めてくれたりしたけど、大学からは何も言われない。なのに、それを読んだ別な大学の教員仲間から、吉岡さんこんなことして大丈夫ですか? と心配されたりした。
そういう点では、形式さえ整っていれば大学は講義の内容に関しては寛容(無関心?)である。それに対して「コロナ対策」と呼ばれている事柄に関してはまったく寛容ではない。今だにマスクして授業しなければならないので、それを考えるとつくづく嫌になる。マスクで講義すると30分くらいで帰りたくなる。しないと受講者の誰かが密告し教務から注意される。それで去年は現地での話はほどほどにして、帰ってからオンラインで内容を思い出しながら話をし、それをYouTubeで公開するという、ある種のハイブリッド講義にした。
今回もそうゆうやり方になるのかな。まず来週一回目をやって考えるしかないか。
研究発表は楽しい(2022.09.23)
2022.09.22付のブログで書いたように、先日久しぶりに学会で個人研究発表をした。日本記号学会ではこれまで、編集委員長、会長をそれぞれ二期、理事も30年近く務めてきた。その間に自分が実行委員長となって大会を企画したことも三回(甲南大学、IAMAS、京都大学と新しい大学に着任する度にそこで大会)あるし、講演やシンポジウムも数えきれないくらい出演してきた。そういう「重鎮」だから研究発表は楽しいなんて気楽に言える、と言われれば確かにその通りだろう(これから学会デビューする院生にとっては、自分が研究者のコミュニティに入れてもらえるかどうかを決めるイニシエーションみたいなもんだから、楽しいどころか前日は心配で寝られなかもしれないしね。)
けれども、それだけではないのである。大学も退職して一区切りついたので、もう一度若い人たちと同じ資格で個人研究発表に臨み、そのためにこれまでの自分の活動歴は全部捨てるという、ある種の知的な「断捨離」みたいなことが楽しくて気持ちがいいのだと思う。
人文系の学会事情に詳しくない人のために言っておくと、個人研究発表の審査においては、重鎮だからといって特別扱いはなく同じように匿名で審査される。だから発表要旨の査読で不採択になる可能性だってある(実際には内容からして誰なのか分かったりすることもあるけどね)。ちなみに、昔の学会ではエライ先生は当然のように無審査で特別扱い、ご高説を拝聴する、という感じだった。そういう権威主義的体制はよくないというので、1990年代くらいに、個人研究発表は誰でも平等に扱うようになった学会が多いのではないか。
これには弊害もあるけど、年長の研究者が第二の人生をスタートするキッカケを与えてくれる点では悪くないのではないか。サラリーマンは定年退職して会社に行かなくなると文字通り第二の人生を始めるしかないけれど、人文系研究者の場合大学を辞めてもそれほど自分の活動は変わらないので、退職後も自分の過去の業績や関心に捕われがちだからだ。
弊害というのは何か。それは年長者の研究発表を若い人たちと同じ基準で審査すると、学会で「規格外」の話を聴けなくなる、という点だ。規格外に優れた内容はもちろん、論理はメチャクチャなんだけどこの人にしか語れないような話とか、聴いていてハラハラ心配になるような話とか。有名大学の教授だったはずなのに何これ? と恥ずかしくなるような壮大な反面教師も、若い研究者がそれを聴いて自信を持てるなら、意味のある存在だと思う。
10月の大会で会長を辞めたら次は美学会に挑戦してみようかな。これは発表要旨審査で落とされる可能性が高いけど。
マウントをとる?(2022.09.22)
「マウントをとる」というのはレスリングか何かの用語かと思っていたら、比喩的な表現のようだった。知的な優劣関係を、知性それ自体によらない要因によって決定する、というようなことかな。つまり年齢とか学歴とか社会的地位とかメディアでの知名度とかによって、「オレはお前より上位だゾ」ということを示して相手を従わせる、ということだろうか。もちろん序列がモノを言うオス同士の社会において典型的な行動である。
そういう行動は散々目にしてきたのだけど、最近この表現が用いられる主な文脈は、マウントをとることはイケナイことだ、という認識が背景になっている。こうした用法には、少しヘンな気持ちがする。「サルでも分かる」という比喩もだけど、なんかサルをバカにしているというか、そんなに人間はエライのですか、という気持ちがする。マウントをとるのがいいことだとは思わないが、たとえ人間であってもオスたちというのはそれくらいバカであり、そのバカさから逃れることなんてできない。オスの宿命みたいなものだから、そんな簡単に自分の意志だけでどうこうできない。
そしてまた、序列がなくなるのは恐ろしいことである。知性というものは複雑だから、その場の議論だけでどっちが正しいとか優れているとか、簡単に決められるもんではない。だからといって、みんな違ってみんないい、ではどうにもならないのである。だから伝統とか権威とかを一応認めて、それが絶対的に正しいわけではないけど、当面はそれで秩序づけておくことが必要である。それも壊してしまったら、もう何がなんだか分からなくなるというか、知的な世界そのものが崩壊してしまうと思う。
たとえばぼくは何十年もカントを読んできたけれど、『純粋理性批判』のテキストは今でもだいたい7割くらいは意味不明なのである。意味不明なのに、そこにまだ自分の理解していない意味が隠れていると思って何度も読んでしまうのは、その著者に知的な権威を認めているということである。ということは、ぼくはカントに「マウントをとられている」のだろうか? この比喩の持つ身体的・性的なコノテーションからして、そんな表現はいかにも不自然だよね。
今は歳をとってそうした経験が少なくなったけど、若い時は年長の研究者たちからさんざん「マウントをとられ」そうになった。それは攻撃ではなくて、「オレに従え、そうしたら護ってやるゾ」というサインだったのだね。しかしぼくはそれらをたいてい無視したので、先輩・先生たちの多くに嫌われたが、その先輩・先生たちを嫌いだった別な先輩・先生たちが認めてくれ、なんとか生き延びてきた。だから「マウントをとる」ことを批判し合ったりするより、嫌なら端的に無視すればいいだけだと思う。
マウント批判をしている人たちは、みんなと平等に仲良くなりたいのかな。ぼくはみんなと仲良くなんてなりたくないし、知的な平等なんて不可能だと思う。
モビリティ、人新世、ケア(2022.09.22)
こういう三題噺のようなテーマを掲げた学会(第42回日本記号学会大会)が、2022年9月17-18日、追手門学院大学総持寺キャンパスで開催された。ぼくはこの学会の理事なので、17日昼の理事会・編集委員会にも出席した。また同日夕方には「人新世の記号論」という個人研究発表もした。この内容については、記号学会の機関紙『セミオトポス』にも載るかもしれないので(査読で落とされるかもしれないが)ここには公表しない。
2日目にはこの3つのテーマに応じて3つのシンポジウムが企画された。だがこの「三題噺」が繋がっていないという指摘が、2日目の全体討議の時に、室井尚さんから指摘された。「モビリティ」といっても話題が「観光」に傾きすぎているし、次のセッションにおいては各報告者の話が「人新世」というテーマに関わる必然性が希薄だし、また「ケア」に肯定的な意味を与えることにも同意できない。そして何よりもこの3つのテーマをつなぐストーリーが見えない、と。
それに対して大会実行委員長の松谷容作さんが、3つのテーマに繋がりがないことは指摘の通りだが、あえてそうすることによって、そのことに不満を持つ(室井尚さんのような)会員からツッコミが入り、議論が活発化するのでは(松谷さん自身の言い方では「ケンカになるのでは」)ないかと思ったという、苦し紛れというか、ヤケクソのような回答があった。だがこれは案外にウケ、質問した室井さん自身も笑っていた。
苦し紛れかつヤケクソだった(そしてそれをいかにも意図したことのように言った)ことがよかった、とぼくは思う。なぜかというと、学問的コミュニケーションといってもそこには、「売り言葉に買い言葉」みたいな側面があるからだ。それがなかったら知的世界は死んでしまう。そんないい加減な、と思う人もいるかもしれないが、そうなのだ。過去の学問の歴史を見ても、19世紀以降はプログラムとか整合性の意識が拡大してくるけど、ぼくが主に読んでいる17-18世紀くらいの初期近代においては、学問といえども結構「切ったり張ったり」の世界なのである。西洋でも日本でも。
なぜヤケクソがいいかというと、追い詰められた時に人間は、その生き物としての動物的直観のようなパワーが知的な言説の中に還流してくることがあるからである。
ぼくは「人新世」について話したが、この「人新世」だってヤケクソの思いつきみたいなところがある。そこの部分は面白いと感じるのだが、今は「人新世」が何か定説というかドグマのように流通しているのが、なんとも居心地が悪い。それが「科学」という装いで来るからよけいに気持ちが悪い。
科学は自由な思考なのだから、明白な証拠を突きつけてドグマに抵抗し、真理はこうなのだ!と宣言するパフォーマティブな力がある。そうやってあえて定説を疑ってみる、という振る舞いに人が共感するところに、科学の民主主義的な側面がある。けれども現代の科学は、むしろいかにして定説を作るかを目指しており、それによって権威を得て政治や資本と結びつくことを目的としているように見える。17-18世紀の世界で言えば、これは科学ではなく宗教の振る舞いである。
「モビリティ」にしても「人新世」にしても「ケア」にしても、それら現代的キーワードが持つ普通の意味、メディア的に受け入れられている意味に根本的な疑問を突きつける、というところに学問的思考の意味がある。そうでなければ、私たちはそうしたマジックワードの呪力に翻弄されるがままだからだ。記号学会は、そうした疑問を提起する場であってほしい。
マスクせずに電車に乗る(2022.06.05)
今日、マスクを付けずに電車に乗ってみた。京都市地下鉄東西線の「山科」〜「京都市役所前」間です。
厚生労働省も屋外ではマスクを外すことを推奨しており、屋内でも距離がとれ会話のない状況では必要ないと言っているので、国の方針に従っただけです。
もちろん、マスク着用は法的強制ではないと同様、マスクを付けるのも自由です。
コロナ以前から病気でもないのにマスクをしている若者とかいました。
そしてマスクをすることの快感、というか、自分を隠す、アノニマスな存在になるということの気持ちよさも、分からないではない。
しかし今の状況はそんな個人的自由といったことからは程遠いですね。
屋外でほとんどの人の歩いていない道や、一人で車を運転している人でもマスクをしています。これは自分の好きでやってるのではない。
さて、マスクなしで電車に乗ったらどうなるかと思ったが、特にドラマチックなことは何も起こりませんでした。
駅員の目に入るところを意図的に歩いてみたが、注意されることはありませんでした。
車内で周りを見渡すと、マスクをしていない僕をジロリと一瞬睨む人は何人かいたが、にこやかに見返すと、目を逸らしました。
全体的にみると、非難はしないけど、あんただけなんでそんなことするの、というような集団的な雰囲気を感じた。気持ちはわかるけど、やめてほしい、というプレッシャーを感じた。
そして、その時の自分の内的な気分をスキャンしてみると、電車の中で自分だけマスクしていないという状況は本当に辛く、怖い。それは自分の弱さでもあると思うが、この人たちに突然襲いかかれれて殺されるのではないかと思った。
突飛に思われるかもしれないが、これが天皇制ということなのかな、とも感じた。つまり、天皇陛下がマスクしているからなのかもしれない、と。バイデン大統領も岸田総理とはノーマスクだったけど天皇陛下とはマスクして会見しましたからね。
だとすれば、天皇陛下が「もう終わりました」と宣言されればいいのではないか、つまり「玉音放送」があれば全てが変わるのでは、とも考えたが、まあそんなに単純なことでもないですね。
ブログ再開(2022.06.05)
みなさま、お久しぶりです。
このブログの記事はほぼ全て、印刷物として刊行した『ミニマ・エステティカ』に収録しましたので、それに伴って本ブログも終了しようと考えていました。
しかし有料プランを終了しても、無料のプランでは継続できるということが分かりました。『ミニマ・エステティカ』は部数が限られており、オンラインで引き続き読んでいる人たちもおられるので、ブログ自体を閉鎖することはやめました。
そういうわけで引き続きここにはテキストを上げていきますが、どれくらいの頻度でどういう形で書いていくのがいいのか、今のところ模索中です。
とりあえず、最近始めたScrapboxの活動と連動させたいと思っているので、そちらもご参照いただければ幸いです。よろしくお願いします。