「変え難いものごと」とわたしたち
この2つのエピソードを聴いていろいろと感じたことがありました
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働き者ラジオ第36回「ややスピ」で紹介されていた、石井ゆかりさんの著書『星占い的思考』からの引用が胸に響きました。"私達の現実的な人生において、本当に自由に選べることなどどれほどあるだろうか。" の一節です。
自分は自分自身で意思決定をしてこれまで生きてきた、という感覚がありました。でもそれは、キマグレエフエムep208でjunebokuさんがおっしゃっていたように、さまざまな幸運なものごとがあったから成り立っているのかもしれない、と思い至りました。そして、自分自身の意思決定が自分に与える変化は実はそれほど大きくなくて、自分自身は多くの変え難いものごとによってカタチづくられているのかもしれない、とすら感じています。
『星占い的思考』からの引用には "占いは私達をいったん自己責任の考え方から引き離してくれる。" という一節もありました。たとえば血液型占いは、「血液型」という「変え難いものごと」をつかって何らかの評価を行なう行為ですよね。「変え難いものごと」にもとづいて評価を行なう行為は差別につながることが懸念されますが、その一方で、「変え難いものごと」をつかっているからこそ、ある種客観的に自身を評価する手段である、と捉える事ができるんだなと気づきました。一時的な避難所として占いを活用する、という考え方も自分にはとても新鮮でした。
自分は、差別につながる言動に対して「好ましくないものである」という気持ちが強くありました。いまでもその気持ちはあり、自身はできるかぎりそういった言動を避けたいし、身近なひとのそういった言動を見聞きしたら対話をしたいと思っています。ですが、今回のエピソードを聴いて、その気持ちは少しゆるくなったかもしれません。
なぜなら、場合によってはその「差別につながる言動」は "変え難いものごとをつかって自身を客観的に評価する試み" が表面的に言動となって現れただけなのかもしれないと思ったからです。もちろん、その言動によって傷つくひとがいることを忘れてはならないですが。その一方で、その言動をしたひとは "一時的な避難所" にいるだけかもしれないので、安直に「差別につながる言動をしたひと」という見方にはならないようにしたいと思いました。
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以下はメモ
たぶん言いたいことメモ
偏見とか決めつけ等は好ましくないなという気持ちが強くある
けど、これらのエピソードを聞いて、ちょっと気持ちが緩んだかもしれない
なぜ?
ひとは、実は、多くの変え難いものごとによってカタチづくられているのかもしれない
ひとは、その変え難いものごとを、一時的な避難所として活用して、自身のこころを支えているのかもしれない
自分はA型だから〇〇だ
自分は男性だから〇〇だ
そういった背景のもとに発せられた「偏見」や「決めつけ」の言葉に対して、安直に「これは好ましくないな」と遠ざけてしまうのは誠実じゃないかもしれない
もちろん、相手に対して自身の価値観を押しつけるようなふるまいは、好ましくないと思う
自分はA型だから〇〇だ。あなたはB型だから××でしょ?
自分は男性だから〇〇だ。あなたは女性だから××でしょ?
(これ、A型同士でも男性同士でも押しつけだよなぁ)
自分以外のだれかをカテゴライズすることは、自身をカテゴライズすることにもなる
カテゴライズすることは情報を削ぎ落として画一化する行為に近いと感じてるので、偏見や決めつけを孕んでいると思う
もしかしたら、「だれかをカテゴライズすること」自体が目的ではなくて、結果的に「自身をカテゴライズすること」によって、自身のこころを支えようとする動きなのかもしれない
血液型占いに関する話題があった
この手の占いって、所与のもの(自身でコントロールできないもの)に対する「決めつけ」じゃんという感覚になった
自身の力ではどうしようもないものごとを基準に、運勢を評価する(場合によってはランキングをつける)行為
危険なことかもしれない、社会的な差別につながる
慎重になりたいよね
自身でコントロールできないものってたとえば
出生に関わる情報
両親
出生の年月日時
出生地
アフリカ、アジア、オセアニア、北アメリカ、南アメリカ、ヨーロッパ(あいうえお順)
国
日本、中国、アメリカ、インド、などなど...(思いついた順)
七地方区分(「北海道」「東北」「関東」「中部」「近畿」「中国・四国」「九州」)
生物学的な身体的特徴
性別(これは性転換手術によりコントロール可能ではあるかもしれないけど、お金と時間が掛かる)
血液型
先天的な体質
災害・事故
地震、津波、暴風、落雷、大雪
火災事故、交通事故
石井ゆかりさんの『星占い的思考』より(音声を聞きながら書き起こしたので不正確な表現や誤字を含むかも) 私達の現実的な人生において、本当に自由に選べることなどどれほどあるだろうか。
生まれた場所、生まれた時代、持って生まれたもの、生育環境、そこから得た考え方の逃れ難いバイアス。
様々な外的条件から、結局はそれを選ぶことを半ば余儀なくされるような形でしか人生を歩めないのではないか。
占いは私達をいったん自己責任の考え方から引き離してくれる。
だれのせいか、だれが悪かったのか、自分の行動によって未来は決まるのか、という激しいプレッシャーからいったん頭を解放してくれるのだ。
だれのせいでもない、そういうことになっているというふうに。
だれのせいでもない、という前提で現在と未来を捉え直したとき、私達は自責の念や後悔や嫉妬や罪悪感から少しだけ離れられる。
認知の歪みがそこで少しだけ緩む。
占いを通して私達は道徳と倫理の外側に出て、そこで自分と人生をもう一度受け取り直そうと試みるのだ。
人生において自由に選べるものごとはそれほど多くないのかもしれない
思考にはバイアスがあり、それは生まれ持ったものごと(自由に選べないもの)から生まれている可能性がある
ものごとを選んでるつもりでも、それは実は外的要因によって選ばされているものなのかもしれない
占いは自責思考から引き離してくれる
自責のストレスから解放してくれる
自由に選べないものごとに基づいて評価するからこそ
自分の責任じゃない場合、客観的にどう評価できるのか、という視点を与えるツール
占いは避難の場所
あくまで一時的なもの、というメッセージ
「ややスピ」の「やや」の部分がこれ
自分は自分で考えて、意思決定して、それによって起こった結果を受け止めてっていうのをやってきたし、
これからもやっていくと思うんだけど、
ある種のおこがましさが自分にあるなとも思うんですよ。
なんでも自分の裁量で結果をコントロールできると思い込みすぎてるんじゃないかとも思ってるんですね。
でも実際にはどうしようもなんないこととか、
祈るしかないような状況っていうのも人生には起こり得るわけで。
(たとえば厄年などを)
よくわかんないけどあんまり気にせずいられてるのも、
たとえば僕が大きい病気をしたことがないとか、
大きな事故にあったことがないとか、
大きな災害で被災したことがないとか、
すごく幸運の上に今自分がそういうのを気にせずに生きていられるんじゃないかなっていう気はしてるんですよね。
自分の意思決定で自分のことをコントロールできるとおもってやってきた
それはおこがましいことなのかもしれないと感じた
さまざまな幸運な外的要因があったから、自身でコントロールできてる感覚を得られているのかもしれない
大きい病気、事故、災害に出くわしてないとか
占いの結果をなにかのきっかけとして活用するのはやるといいんじゃないか
良い意味で言い訳として使う