ソフトウェア・ソースコードの「証拠保全」実務|弁理士田中智雄
1. 具体的な例:元エンジニアによる「コード持ち出し」事件
【状況】
クライアント(SaaS企業A社)の元CTOが退職し、競合他社B社を設立。そのわずか1ヶ月後、A社のサービスと機能もUIも酷似したアプリをリリースした。A社は「自社の独自コードが盗用された」と確信しているが、B社に「見せてくれ」と言っても拒否されるのは目に見えている。
① 申立て(秘密裏の準備)
裁判所に対し、「今すぐ証拠を押さえないと、B社に訴訟を予知され、コードを書き換えられたり消去されたりする恐れがある」と主張し、証拠保全を申し立てる。 ② 現場への「急襲」
裁判所が認めると、ある日の午前中、裁判官、書記官、カメラマン、そして弁理士が、B社のオフィスにアポなしで現れる。
「証拠保全の決定が出ました。今から貴社のサーバーと開発PCの調査を行います」
③ 技術的な「フリーズ」
相手がコードを操作する前に、以下の作業をその場で行います。
ハッシュ値の取得: ファイルの中身が後で改ざんされていないことを証明するため、その瞬間のハッシュ値(SHA-256など)を記録。
Gitログの抽出: git logやコミット履歴を確認し、開発の「足跡」を丸ごとコピー。
クラウドの保全: 現場のPCからGitHubやAWSの管理画面にログインさせ、その画面をキャプチャしたり、リポジトリをエクスポート。
2. 証拠保全の「3つの武器」
ソフトウェアの保全において、技術的な知見が法的手続きを支える。
ミラーリング(複製) ストレージ全体をコピー 削除されたファイルの復元(フォレンジック)を可能にするため。
ソースコードの抽出 特定のロジックを特定 独自のアルゴリズムや「コメント文の癖」など、盗用の証拠を探す。
環境のキャプチャ 動作している様子を記録 コンパイル済みのバイナリがソースコードと一致するかを確認する。
3. なぜ「弁理士」の視点が必要か
この手続きにおいて、「法律も分かり、GitやWebの仕組みも分かる」専門家の存在は決定的。
「どこを叩けば証拠が出るか」を知っている:
単に「PCの中身」と言っても広すぎる。.envファイル、.gitディレクトリ、特定のライブラリ、あるいはSlackのログなど、エンジニアリングの勘所があるからこそ、短時間の保全作業で「決定打」を見つけられる。
裁判官の「目」になる:
裁判官は法律のプロだが、コンテナオーケストレーションやマイクロサービスの構造には詳しくない。弁理士が「このディレクトリにあるのが核心のロジックです」と翻訳・説明することで、保全の精度が飛躍的に上がる。
4. 注意点:証拠保全の「限界」
強制力はない:
刑事事件の「捜索差押」とは異なり、民事の証拠保全には、鍵を壊して押し入るような強制力はない。
しかし、拒否は「負け」を意味する:
もし債務者が正当な理由なく保全を拒否した場合、本番の裁判で「相手の言い分(盗用したという事実)が正しい」と裁判官に推認されてしまう、非常に重い不利益(民訴法208条、248条の準用など)がある。
まとめ
「ソフトウェアの証拠保全は、デジタルの砂時計が落ち切る前に、法というカメラでその瞬間を固定する作業である。技術的な『急所』を理解している者が主導して初めて、真実を語るコードを確保できる。」