#0164卅 こうすればこうなったのにそうしなかった責任を考えられないかも話
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【しゃべれるだけしゃべる】#0164 こうすればこうなったのにそうしなかった責任を考えられないかも話 from Radiotalk
このエピソードでは、責任の概念を深く掘り下げており、ホモ・サピエンスに特有であることや、AIや法人への適用に関する複雑さを探ります。また、不作為の責任や歴史に関する思考実験を通じて、過去の選択の重要性について考えています。想像力の欠如が他者とのコミュニケーションや責任感に与える影響についても触れています。責任を考える際の思考の重要性と、それに関連する想像力のレベルについても深く掘り下げられています。(AI summary)
責任の難しさ 不作為の責任 歴史のifと想像力 思考熟慮の重要性
はい、優雅に始まり呑気に終わる、しゃべれるだけしゃべる、今日は4月21日ですね。4月下旬に入っちゃいました。
164個目のエピソード、こうすればこうなったのにそうしなかった責任を考えられないかも話、というタイトルになりました。
こうすればこうなったのにそうしなかった責任を考えられないかも話、相変わらず変なタイトルですけれども、これはどっからいこうかな。
結局2つぐらいあって、1つは責任っていうね、責任って難しいんですね。
例えば犬がここでうんちしましたと、人の家の前でね。犬に責任はありません、飼い主の責任ですとか言ってね。結局その責任、犬が噛みました、怪我しました、
誰の責任か。相手が手を出して、不用意に手を出したからかもしれないし、ここで責任を議論するとき犬の責任はあんまり問題にならないんだよね。
結局、責任っていうのはホモ・サピエンスに特有の概念ということになるわけで、ホモ・サピエンスだからこそ責任論が生じるっていう。
これは例えば、AIに責任はあるかっていうね、最近で言えばね。AIに責任はあるかってAIの責任論みたいな、
AIがでもこれから意思決定に影響を与えてきたりとかするからね。AIの責任論みたいなのが出てくるんだけど。
結局、責任を問える、あるいは責任をとれるのは人しかいないっていう話で、人っていうのがこれ民法で定義されてるわけね。
これ遡るとナポレオン法典とかいっちゃうんですけど、まあとにかく人っていうね、シビルローですね。シビルロー、市民法というのが法思想史上、なんか難しい話になってますね、成立して。
結局、責任概念っていうのが出てきてね。責任論って結構、難しいんですよね。いまだに決着ついてない部分いっぱいあるんですけど、
よく道義的責任とか法的責任とか、記憶にございませんとかいろいろありますけれども。
法的責任は問われないけど、刑事罰の責任は、刑法上の責任は問われないけれども、道義的責任はどうなるんですかとかね、
言われたりするわけですけど。この責任っていうのは意外と曖昧模糊としてて難しい概念なんですね。
なぜかといえば、ホモ・サピエンスの社会でしか通用しない概念だからなんですが、それで市民法シビルローっていうのができてね、
人っていうのを定義するわけね。人とはいつから人になるか。
ポコンと生まれ落ちた瞬間から人になるんで、胎児は人じゃないとかね、いろんな議論があるんですけども。
人権っていう、人権思想ですね。人権思想と責任論ってのはちょっと結びついてる部分があるんですね。
権利と義務とかね、いろいろあるからそこで義務を果たさなかったら責任が問われる。
このいろいろ、法律上はいろいろ出てくるんですけど、でも、もうちょっと哲学的にとか、あるいは政治的にとか、
あるいは人間としての責任とかね。それこそ道徳的、道義的責任みたいなことを考えるとこれなかなか難しくなってくるわけですよね。
法的責任だけで責任論は問えない。ただ一応、市民法の世界では人というのを定義して、
成人というね。つまり未成年の責任は問わないという話があったわけね。
それは人としてまだ未成熟だからだっていう、責任能力がないなんて言い方するわけですけども。
それで法律上はそんなことがあって、だけどいわゆる人っていうのは肉体を持った個人というのが基本なんだけど、
それだけじゃうまくいかないんで世の中、法人っていうね、法人ってね、知ってますかね。
法人、なんとか法人とかね、学校法人、社会福祉法人、財団法人、いろんな法人ありますが、
あれは結局、法律上、人とみなすというね。まあ知ってると思いますけど、こんな常識的なことはみんな知ってると思うんですが、
法律上、人とみなす。だからそこには責任能力が問われる。会社の責任、法人の責任っていうのがね、問われるっていう話になってくるわけなんだけど。
まあそれはさておき、この責任論ってのは意外と難しいっていうのが一つね。
社会的な相互関係の中で、相手がいて初めて成立する話だっていう。
しかもこれ当事者同士だけにとどまらない問題が出てきちゃったりするっていうね、これも厄介なんですよね。
それ当事者の問題だろうとか思うんだけど、そうじゃない場合も結構あるわけですよね。
もう一個、今日のタイトルね。こうすればこうなったのにそうしなかった責任を考えられないかも話ということで、
今言った法的な責任で言うと、これこうすればこうなったのにそうしなかった、不作為の作為みたいな言い方があるんですけど、不作為の作為ね。
やんなかったことを意識してやんなかったっていう、わざとやんなかったと。
やるべきことをね、知ってたんだけど、わざとやんなかった。
過失とかね、あるいは、なんだ、本当に知らなかったときには責任問われないとか、まあいろいろあるんだけども。
結局、ここでこうすればこうなったのにそうしなかった責任っていうのは、法的なレベルだけじゃなくて、いろんなレベルであるんですね。
例えば、恋人同士でね、もっと早く朝起きれば、今日はディズニーランド行けたのにって、
あんたが起きなかったからディズニーランド行けなくなっちゃったじゃない、どうしてくれるのみたいな話とかね。
例えばね、こうすればこうなったのにそうしなかった責任っていうのは、結構いろいろあるわけね。
これは、例えばまあいわゆる身近な例では今言ったディズニーランド行くとかね、いうレベルとか。
あんたがぐずぐずしてるからこうなっちゃったじゃない、みたいなね。子供にも言う人いますけども。
いやあ、子供なんで未成年なんで責任能力ないんですとかいう話には、法律上はなってもね、世間的にはならないわけで、人間関係の中ではね。
まあその話はさておき、結局もうちょっと大きい話すると、これもう一個は、
こうすればこうなったのにそうしなかった責任っていう時に、これいわゆる歴史のifってわかりますかね、歴史のif。
もしね、この時こういう決断じゃなくてこういう決断をしていたらなんて話あるじゃないですか。
こうしていればこうなったのにそうしなかったからこうなっちゃったみたいな。
あの時なんでそうしなかったのか、それはそこまで思い至りませんでしたっていうのもね、言えちゃうんだけど、そうしたらしょうがないんだけど、でも考えたらわかるでしょみたいなこともあるわけね。
だから知らず知らずのうちに結果として10年20年経って結果として責任を果たせていなかったみたいな風に悔やんだりすることも、まあまああるわけだけど、ただそれに気づく人と気づかない人がいるんだね。
この歴史のifってのは結局、実際に起こらなかったことを想像するわけでしょ。
実際に起こらなかったことをこう、思考実験って言いますけど、あの頭の中で考えるわけだよね、歴史のifね。
現実とは別のこと、現実と違った反実仮想って言うんですけど、反実仮想ね。カウンターファクチュアルシンキングですね。
反事実仮想、反実仮想なんて言うんですけど、なんか難しい話になってきたね。
それは実は何と結びついているかというと、想像力なんですね、イマジネーションね。
だからイマジネーションが足りないとその歴史のifは考えられない。
イマジネーションが欠けていると責任に無頓着になるってね。
誰がどう考えたってあの人の責任でしょってみんな思ってるのにね、平均的なイマジネーションで、社会的な平均的なイマジネーションからすればそうなのに本人は全然もうその責任がわかってないみたいな時って時々あったりするんですけども、
これは何が足りないかっていうと想像力が足りないって話になるわけね。
結局、想像力なんですよね。
相手の痛みとかそれがもたらした結果とか帰結とかね。
あんたがグズグズしてるからディズニーランド行けなかったじゃないって、別にディズニーランド行きたいと思ってないし、
だったら最初からそう言ってよ。
いやだから俺は最初から行きたいなんて言ってないしとか言ってね、こう責任のがれをするわけですけれども、
結局そこで想像力なんですよね。
子供と奥さん、恋人は、あ、子供と恋人じゃおかしいな。
彼女はディズニーランド行きたいと思っていると。
俺はそれに対してどう答えるかと。
答えたくないなら、はっきり行きたくないと言うべきなのに言わずに、
ここで本当そうすべきっていうのは、本当は言えばよかった。
だったら早く言ってよって、最初に言ってよってね。
いや、だってね、行くって言ってないしとか言ってね。
これ言い逃れするのは結局、責任のがれをしてるって話になるわけですけど、
結局ここで想像力なんですよね。
自分に対する想像力、相手に対する想像力、
そしてその組織とか社会とかね、
集団に対する想像力みたいなね。
ここがね、どんどんどんどん欠けていくと、
あるいはそれが欠けたまんま大人になっちゃうと、
本当に困っちゃう。困っちゃう。
何が困っちゃうのか分かんないけども。
本当に困っちゃうわけね。
めんどくさい話になってくるわけ。
結局そこの想像力にはいろんな程度の違いがあるわけだよね。
想像力たくましすぎて妄想膨らまして、
どう考えてもそれ相手の責任じゃないだろうってことまで
あんたの責任よみたいな風に妄想で走る人もいるから
これすごく厄介なんですね。
その想像力の程度にはいろんな違いがあって、
妄想からね、そうじゃない、
まあそれはそうだよね、もっともだよねみたいな想像から。
あるいはその中間だよね。
よく考えればそうだねとかね。
あるいは常識的にはなかなかそこまで至らないけども、
でもよく考えれば、今から考えればそうだよねみたいな。
つまり過去の自分においてはそこまで思い至らなかったけど、
今となってはそこまで思い至るなんてこともあるわけだよね。
ここで大事なのが想像力プラスやっぱり思考。熟慮なんですね。熟慮。
可能な限りシミュレートして可能な限り考え抜く。
だから考えるってことはとても重要なんですよね。
考えない奴は責任能力ないですからね、基本的にね。
未成年が責任能力ないってのは、やっぱ考える力なんですよね。
ただね、じゃあ18になったら考える力つくかって言ったらそんなことないわけですよね。
年齢だけでね、経験積まずに年齢だけで責任能力が生まれるわけじゃない。
ただ一応、年齢の目安で線を引いてそこまでには最低限ね、
市民としての責任能力は備えとけよってことで一応、成人年齢は定められてるわけだけども、
成人年齢定められてても精神年齢が成熟してなければ責任能力は生じないから、
責任能力ない人間が成人しちゃった世の中ができちゃうとこれは厄介なんですね。
タイトルに戻って、こうすればこうなったのにそうしなかった責任を考えられないかも話、
っていうことでそういうことが結構いろんなところで起きてるような気がして、
これはもう想像力の欠如、熟慮の欠如、経験値の不足、精神的な成熟の欠如とかね。
あ、終わります。
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