#0163卅 我思う故に我ありの我は思う前にあったのなかったのどっちかなの話
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【しゃべれるだけしゃべる】#0163 我思う故に我ありの我は思う前にあったのなかったのどっちかなの話 from Radiotalk
このエピソードでは、ルネ・デカルトの「我思うゆえに我あり」について、思考と存在の関係を探ります。特に、AIの登場がこの哲学的命題に与える影響について考察し、実際に行動を伴わない思考が存在を創造しないことを論じます。(AI summary)
デカルトの哲学に関する考察 存在認識の重要性
はい。おはようございます。優雅に始まりのんきに終わる、土曜日の朝ですね。土曜日なのに工事が始まりましてちょっとうるさいですけど。ただ平日のうるささよりも遠慮し
ながらうるさいというそんな感じですが、まあそれはさておき。車が通りました。優雅に始まりのんきに終わる、しゃべれるだけしゃべる今日は163個目のエピソードですね。
163特に語呂も何もないですね。0163何もないですね。今日のタイトル、我思うゆえに我ありの我は思う前にあったのなかったのどっちかなの話
という、まぁこれはもうデカルトさんですね。ルネ・デカルトさんが方法序説その他で 我思うゆえに我ありと言って、これがまあ近代哲学の幕開けだなんて言われたりしたりとか、
あるいは主観客観二元論の始まりで批判されなければならないと言われたりとか、まぁいろいろ あんだけど、まぁそんな話は置いておいて。我思うゆえに我ありっていう前に我はいたのかいなかったのか
っていうね問題もあるのと、他にもちょっといろいろあって、思うだけで我はいるのかって いうね。これ、その最近あの AI ができたでしょ。 AI がね。
AI 。AI の中に脳みそ作っちゃったわけですよね。ニューラルネットワークで。この機械、機械の脳が出てきて、AI は我を持っているのかってね。
もし思ってんだったら我ありになっちゃって AI にも自我があることになっちゃうんだけど、 思うだけで自我になるかって言ったらならないだろうっていう。
そこで、そのホモ・サピエンスは我ありという確信を持ち、 AI は我ありという確信が持てないわけね。 現状ではね。現状ではね。この違いは何かというね。つまり思うだけでは我ありには
ならないっていうのは AI の登場によってはっきりしたという珍説が私の説でね。機械の AI が出てきたことによって
存在論の問いがいろいろ考える余地が出てきて面白いですね。それで AI は自我を持つのかってね。
AI は我を持っているのかって言うと、でもまぁ見てる限り、字面見てる限り思っている ように見えるわけね。
今日はどんな気分て、チャット gpt に聞けば、今日はこんな気分ですねって言うしね。会話ができちゃう。対話ができちゃう。
あたかも自我が存在しているかのように見えるわけだけども、じゃあ AI 君は確かに我ありというふうに言えなくもないんだけど、でも自我があるかっていうと自我はないことになってるわけね。
ここで、ホモ・サピエンスとAIの決定的な違いは何かみたいな話になるんだけど。なるんだけどって、いきなりデカルトからAIかよみたいな感じだけど。これまで近代の哲学者たちとかね、近代以前の哲学者も含めて 存在とか認識とか人間存在とかいろいろ考えて、この世はとかね、いろいろ考えてきた
わけね。考えてきたんだけど、ここにきてやっぱり一番大きな変化は、いろいろあるんだけども、一番大きな
変化は、やっぱり AI という人工知能ができたってね。これが存在にとって何を意味するかっていう。これまでの哲学をひっくり返すぐらいのね。
あるいはひっくり返さないまでも、腑分けできるわけね。AI の登場によってわかったことが 結構いろいろあるというね。だから思うだけでは我にならないっていう。
じゃあ AI が自我を持つとすれば何が必要かって話で、これ前にもちょっと喋ってるんだけど、やっぱ、あのもっと言うとあの最近の脳科学ね。
脳科学の話も好きなんだけど、ホモ・サピエンスの脳科学も進化して、結局あの私が依拠してるのはその能動的推論という、自由エネルギー原理というやつなんですけども。
これで行くと結局、知覚神経と運動神経なんですよ。脳、ホモ・サピエンスの脳みそは知覚神経と運動神経と両方持って、これを駆使しながら世界を認識してる
わけね。つまり結局、我思うゆえに我ありの我の我は脳みそが考えてるわけね。
ルネ・デカルトさんの脳みそが考えてそうやって言ったわけだけど、そういう言葉、言語を紡ぎ出した わけだけども、あたかも真理であるかのようにね。それはただの文字列に過ぎないんですが。
まあそれもさておき。結局、ホモ・サピエンスの脳みそは 運動神経と知覚神経を駆使して
それで世界を認識してるってね。世界を認識してるという。まあ細かい話がいろいろあるんです がこれはもう間違いないわけね。
しかも常に動いてる。行為の中にある。生きて動いてるってね。生きて動いてるってね、ここ大事なんですね。
これ死んじゃったらもう我もクソもないわけで 、結局、脳が動いててしかも運動神経・知覚神経を駆使しているというね。
常に脳が能動的に推論をしているという。未来に向かってね。現在の中で未来に向かって、過去の記憶も参照しながら常に現在の中で、
未来指向で運動神経と知覚神経を動かしながら世界と触れ合っているって、ここなん ですよね。これがもう本質なんですよね。だから我はあるわけね。
何が言いたいかというと、我思うだけでは我はないということですね。運動神経ないと。ルネ・デカルトさんきっと頭の中だけで考えてあんまり行動しなかったかもしれない。
わかりませんが。ちょっと頭でっかちなんでね。やっぱ動いてみないと。
例えば、ここに目の前に今ワンコいて背中撫でろって、こうやって撫でると私の手が触覚を通じて 運動神経通じてこう撫でると、ワンコがいる。ところが、こうスマホ見ててね
っていうか、まぁ空見ながら喋ってるんですけど、なんかワンコがどっか行っちゃったと。あれ触っても いないぞ。ここにいたはずなのに。それで目で見るってね。知覚神経で視覚で捉える。
ここにいたと。だから手が届かないんだ。ここまで近づけばこうやって届くなーつって手を 伸ばすとワンコがいて、この知覚神経と運動神経ね。
手を伸ばす。目で見てる。これが一致するからここにワンコがいると。触ると 毛がフサフサしてるってね。それでワンコの存在を認識し、私の存在、
ワンコに触ってる私ありというね。ワンコもありで私もありだなと。だから思ってるだけじゃ、例えばもうこれでね、
ワンコがいるなぁと、頭の中で、目つぶって手も動かさずに、我思う我思う。ワンコがいる。ワンコがいる。耳も聞こえない。
犬の気配も感じない。五感を働かせずに我思う我思うって、脳みそだけで我を思ってたって、我は存在しようが
なくって、実はね。そうじゃなくってやっぱ手を動かし五感を動かし そして運動神経ですよね。実際に体を動かし、そこで五感を通じて運動と
知覚が一致する。そこで予測のズレが生じた時にそれを修正することでやっぱ 世界の輪郭をもう一度掴み直すってこういう行為ですね。行為。
能動的な行為があるから、体と結びついた脳みその、ホモ・サピエンスの脳みその能動的な行為があるから、我の存在を感じれるという
そういう話なんですね。だから結局 AI は 我思ってるかもしれないけれども、我はないわけね。未だにね。
思ってるだけじゃ我にはなれないということで、結局 タイトルに戻って、我思う故に我ありの我は思う前にあったのなかったのどっちかなの話で、
思わなきゃないけど思っただけじゃないぞという、そういう結論なんですね。 何話してるかわかりませんね。
ただこれまあ厳密に話すといろんなことあるんですけど、まぁぶっちゃけって12分でね、 適当な与話をしてるわけですけども。
結局、我思う故に我ありだけど、我を思ってるだけでは我はないし、我思う前に我があるかというと我が思わなければ我もないというね。
だからそういう意味では、我思うゆえの、タイトルもう一回見なきゃわかんなくなっちゃった。われ思う故に我ありの我は思うは前にはなかったし、これ AI 君ね、
我を思わなければ AI 君存在しないわけでね。まあただ思わない AI はあったかもしれないけど、考えられない AI だったわけで、
そうしたら例えば認識ができないわけでね。やっぱ考えるっていうね、脳のニュー ニューラルネットワークね。
これがないと脳みそがないとやっぱり存在は感じれないと思うんですけども。ただ原始的な動物でも、知覚神経と運動神経を駆使して脳みそ持ってりゃそれなりに感じれるっていう。脳みそがなくても、
神経系があれば運動神経と知覚神経を持ってれば一応世界を感じれるわけね。  だから一応自分の存在感じてるとも言えなくもないけど、それは言語的に表現できないから、
例えば今、目の前にワンコが足元座りましたけど、寝転びましたけど。このうちのワンコは我を思うゆえに我ありなんて思ってないわけね。
だけど自分の存在は認識してるわけだよね。恐らくね。言葉にならないけど、それは結局、自分が動いてね、何か歩いたらぶつかるとか、こういうおいしいものがある、これを食べたら
おいしい、お腹がいっぱいになった、眠くなったってね。つまり運動神経と知覚神経が脳みそと結びついて、常に現在の中で未来を指向し
ながら世界と触れ合いながら動いてるからこそ 、自己存在を感じることができるってことなんですね。ということで、ルネ・デカルトさん、
我を思うだけでは我ありにはならないっていうのは、AI君が証明してくれちゃったと。我思う前には我はやっぱりなかったということになるし、
ただ物質的な存在がなかったかというとそうじゃないのは、これは考えれない AIになる前のコンピューターは、そこにものとして存在してたわけだけど、でもその
存在を認識できたのはやっぱりホモ・サピエンスだけだったと思うんですよね。だけではないな、ワンコもそこにコンピューターに何かものがあるなというのは思ったかもしれないけど、
結局、脳みそを持って運動神経、知覚神経を駆使する生命体の、生命体しか基本、存在を認識できないってことかなという気がするんだよね。
そうすると、その辺に生えてる草とかは自分の存在を風に揺られて気持ちいいなーって存在認識してるかどうか分かんないけども。
ハエとり草とか存在認識してるのかな。自分の存在をハエが止まったってこう 知覚神経運動神経で存在認識してるかもしれないけど、動かない草はどうだろうね。風に揺られると
存在認識するのかな。風に揺られて気持ちいいなーとか、タンポポ君がね 今日は風が強いぞって言ってこう
タンポポの種を飛ばすぞーみたいな風に思ってるのか思ってないのかね、分かりませんけど。ただその運動と知覚というのの原始的な形は、植物もかろうじて持ってなくはないから、
生きてるわけだよね。そこで何か世界を感じてで能動的に行為してるっていうことは、まあ言えなくはない。脳みそ持って
ないけどね。まあそんな生命の存在ということがまあ起源にあるのかなと思いながら、だからAI君はまだ体持って
ないから五感持ってないからね。運動神経持ってないから、これ運動神経持たないとやっぱり我思う ゆえに我ありにはならない。
思ってるだけじゃならない。のんきに終わりたいと思います。
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