百合基調講演:「ガールズラブコメ」の戦略について
1. 講演の背景と導入
講演の状況設定
時期と場所
二〇二五年六月、京都市内某所にて開催。
講演の主題
2. 「百合」の定義をめぐる不毛な議論
歴史認識の不完全性
一般的な百合学徒の認識
今野緒雪『マリア様がみてる』から遡り、大正期の吉屋信子(および中里恒子、川端康成)に至る少女小説の流れを教科書的に履修する傾向がある。 しかし、このリストは文学史・想像力の歴史として不完全であり、歯抜けだらけである。
埋もれていた作家の例
伊澤みゆき:吉屋信子が『少女画報』に投稿するきっかけとなった作家だが、二〇二五年になるまで作品集(『いっそあの方が死んで下すったなら』)がまとまっていなかった。
我々が立っているのは明確な「歴史」の流れの上ではなく、散発的な点と点を結んだ仮想上の概念的リレーの上にすぎない。
複数メディア・ジャンルの影響
少女小説と周辺カルチャーの接続
氷室冴子:伝統的な少女小説の継承者というだけでなく、新井素子などの同時代作家、SF接近した少女漫画(二四年組)、当時のカルチャーを含まなければ、その文体の魅力は説明しきれない。
現代における百合の複雑性
二〇二五年現在の百合(漫画・小説)は、複数メディアやジャンル、外部との相互的影響関係の中で生まれている。
刊行点数があふれており、専門家による年単位の調査なしには定量的分析は不可能。
定義論における「躓き」の原因
「堕落した情報があるのではなく、情報それじたいが堕落なのだ」。
「百合とはなにか」という定義には、「百合とはどのようなジャンルであるべきか」という規範や権力が含まれがちである。
「である」という事実を「べき」に置き換えようとする態度が見え隠れする。
前提の共有不全
読者が百合を読み始めた時期(2010年、2015年、2020年など)によって、想定する「百合」のモードやシーンは異なる。
時代言説を橋渡しするアーキヴィストが不在のため、個々人が異なる「百合」イメージを前提に、断定口調ですれ違ったまま語ってしまう。 性愛描写をめぐる言説
二項対立的な定義の不毛さ
「性愛を描かないのが百合」対「性愛を描かなければ百合ではない」という対立。
「レズは百合じゃない」といった言説の存在。
背景にある問題
同性愛への理解や知識が曖昧なまま、想像の源泉として描かれてきた歴史。 日本文学史における女性同性愛表現
「異性愛が自然・正しく、同性愛は間違い」というイデオロギーに基づき、同性愛者が物語から罰せられる(死ぬ、退場させられる)作品が少なくなかった(例:堀辰雄「水族館」)。
これらを調査した同人誌『百合小説アーカイヴ(仮)』の試みがある。
講演者のスタンス
過去どのような規範イメージがあり、どう逸脱がなされたか、それらがどう伝言されているかを検討すべき。
無根拠な定義論はディスコミュニケーションを生むだけである。
性愛描写の義務化への反対
性愛描写の有無で百合を語ることに反対の立場をとる。
現実の異性愛者が、異性と性的関係を結ばなくても異性愛者として扱われるのと同様に、フィクション内でも性愛描写が「通行手形」として義務的に扱われるのは抑圧的である。
提唱の経緯
『わたなれ』アニメ公式サイトでも「ノンストップ・青春ガールズラブコメディ」と謳われている。
用語の意図(「読後感」の提示)
「百合」という言葉だけでは、社会人百合、おねロリ、殺伐百合などシチュエーションが多様すぎて読後感が伝わらない。
「ガールズラブコメ」と名乗ることで、どのような読後感が得られるかを分かりやすく提示し、読者の期待感を適切に誘導する看板とした。
「百合とはなにか」という不明瞭な問いではなく、「どのような百合であるか」を提示する戦略。
”関係輸入型”スタイル
物語構造の特徴
三作品とも、「(異性愛ベースの)女性キャラクター視点」に寄り添いつつ、「他の女性キャラクターから関係を迫られる(落とされそうになる)」構造をとる。
ストーリーやキャラの矢印がわかりやすく、不慣れな読者でも入りやすい。
キャラクター配置と役割記号
主人公を「ストレート(異性愛者)」として設定することで、多くの読者が感情移入しやすくしている(みかみてれんインタビューより)。 攻める側のキャラクターに、「バリタチ」(『ありおと』)、「スパダリ」(『わたなれ』)、「籠絡のエキスパート」(『まれつみ』男性相手の表現の転用)といった役割記号を与えている。
異性愛ロマンス構図のパロディ
女性が男性的な存在にアグレッシブに落とされるような、異性愛ロマンスの構図をパロディとして用意している。
ジェンダー規範を無自覚に再生産しがちな「ライトノベル」において、同性愛表象を描くための生存戦略ともいえる。
えっちなサービスシーンの挿入も、ヒットのためには(フィクション受容の形として)拭えなかった要素であると指摘できる。
作品概要
二〇二五年現在、最終話を迎えたばかりの話題作。「宇宙世紀」のif要素を含み、過去作品とのつながりを示しつつリファインされた新作。
シャア・アズナブルとシャリア・ブルの関係性が一部でBL的カップリングとして話題になった。
根拠となったシーン:間接照明の密室でワインを飲みながら未来のために握手をする密約シーン。
作中ではこれ以上の描写はないが、視聴者は「密室」というコードを介して親密圏を仮構し、他者を排除した特別な感情を見出す。
映画『セルロイド・クローゼット』(ヴィット・ルッソ原作)への言及。
クローゼットの中にいたホモセクシュアルは、メインストリーム映画の中の微かなエロスの揺らめきに同一化してきた。
確信が持てないからこそ、解釈のゆらぎの領域に欲望を介して踏み込むことができる。
異性愛カップリングとの非対称性
エグザベ・オリベとコモリ・ハーコートのように、一度も二人きりのシーンがない男女でも、年齢や階級が近いだけでカップリングされる。
性別を介した表現において、我々がいかに特定のコードや枠に流されやすいかを示している。
異性愛/同性愛判断のバイアス
「手をつなぐ」行為への反応の違い
男女:ヘテロだと発話されることはなく、自然な異性愛カップルとみなされる(透明化されている)。
女女:レズビアンだと即座にみなされることは少ない(仲の良い友人とも取れるため判断が保留される)。
男男:高確率で「ゲイだ」と発話される(コードとして顕在化する)。
認識の不均衡
異性愛は「何もない場所」にも想定される(自然なものとされる)。
同性愛(特に男性同性愛)は記号(コード)を介さなければ意識されない。
女性同性愛は日常ベースでは認識判断できない形で半透明化されている。
シイコ・スガイのクィアな読み
キャラクター描写
『GQuuuuuuX』四話登場。かつてのエースパイロット「魔女」。戦後結婚し一児の母となるが、戦場へ戻る。
「普通」という言葉の多義性
「望むものすべてを手に入れる」ことはできず「普通の生き方を受け入れた」という述懐。
この「普通」は、家庭内の性別役割(母・妻)を受け入れることと同時に、同性愛者ではない「ストレート」としてパッシングしようとしたこととも読める。
クィアな読みの可能性
かつてのマヴ(相棒)の性別が明示されないこと。
「望むものを諦める」二者択一のイメージ(普通/普通でない)。
「結婚」や「出産」の描写をもってクィアな読みをゼロにするのは、異性愛中心主義的な見方である。
6. 再考:「ガールズラブコメ」の戦略
異性愛中心主義と同性愛の定義
竹村和子『愛について』の指摘
異性愛者は性交渉を持たなくても異性愛者でいられる(同性愛を実践していないことで定義される)。
同性愛者は性愛の実践(性器的セクシュアリティ)を期待される。そうでなければ単なる友情とされる。
これは異性愛者が「正常/異常」の境界を維持し、自身のアイデンティティを保つための「厳格な峻別」である。
百合ジャンルへの影響
「性愛至上主義」的な定義(性愛があってこそ本物のレズビアン/百合である)は、こうした異性愛中心的な視点と合流している可能性がある。
解釈コストの低減戦略
曖昧さの排除
同性愛表現のコードが曖昧だと、読者が「これは百合か?」と解釈するために支払うコストが高くなる。
みかみてれん作品は、異性愛的コード(バリタチ、スパダリ等)を輸入することでコンセプトを明快にしている。
構造的な安心感
物語開始時点で「落とされる」ことが最終目標だと明示されており、関係構築の過程をイメージしやすい。
「大丈夫、みかみてれんの百合本だよ!」という著者コメントも、解釈コストを払わなくてよいというメッセージである。
「ガールズラブコメ」の真の問い
「どっちが好きなのか?」というハーレム的問いだけでなく、「わたしの欲望はどこにあるのか?」というアイデンティティの肯定を暗に目指している。 『マリア様がみてる』の構造
当初は祥子からの一方的な契約(妹を作る手段)として提示され、祐巳はいったん拒否する。
「落とす/落とされる」という賭けから始まりながら、交流を通じて主体的に「姉妹」となることを望む友愛の物語へと変化していく。
男女のジェンダーロールのパロディ(『乙女の港』的)を意識しつつ、一方的な関係構築を再検討するプロセスがある。
パロディを通じた撹乱
「ガールズラブコメ」も同様に、性別役割を意識させる構図から入りつつ、「わたしたちの望む関係は何か」をパロディ的実践の中で見出そうとする。
異性愛で多用されるコードを同性愛表象に当てて可視化することは、異性愛中心的なイデオロギーへの「ずらし」や「撹乱」として機能する。
フォロワーの出現
としぞう『百合の間に挟まれたわたしが、勢いで二股してしまった話』、悠木りん『だれがわたしの百合なのか!?』など、「ガールズラブコメ」を標榜する作品が登場し、コードとして自立しつつある。
講演者の願い
「ガールズラブコメ」が単なる異性愛ロマンス風ラブコメとしてパージされず、その戦略性が無化されないこと。
他の「百合」作品との連続性を失わず、多様な表象の一つとして語られること。
「未知の欲望を読む」ことを通じて、百合という言説空間に近づく可能性を残すこと。
7. 結び
まとめの引用
村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて』より、「どこに向かっているかわからない欲望、同一化できるかどうかわからない欲望の所在に気づき、ためらいがちに近づくこと。クィアなパフォーマンスが文学批評に多くを与えてくれる(逆もまた)のは、未知の欲望を読むことを通じてである。」
メッセージ
「ガールズラブコメ」をイデオロギーとの緊張関係の中に持ち込む提案。
あなたとわたしの間にゆるやかな連続性があることを願い、物語の種を蒔く。
次の、そのまた次の百合のために祈る。
補遺・参考文献
補遺
『SFマガジン』二〇二五年八月号の水上文「同じではない同性愛ーー百合とBLの差異について」への言及。「百合」と「BL」が異なる市場原理や差別のなかで表現されてきたことを解説している。
主な参考文献
ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』
久米依子『「少女小説」の生成』
村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて』
竹村和子『愛について』