20240304
先週までやっていたNHK「100分de名著」のローティ「偶然性・アイロニー・連帯」回を追ってるけど、特に第4回の内容がめちゃめちゃ響いている。文学を通じた感情教育(sentimental education)についての解説を聞いた伊集院光さんが「何かこう、(残酷な事柄を自分が理解するために)理論みたいなことは分析には役立つと思うんですけど、別に辛い最中の人は分析してほしいわけじゃないし、分析するということはやっぱりしょうがないと言うことに近い」というコメントが諸々をクリアーにする整理だった。たしかに、状況を把握したい各々としては理屈がわかることで理解が捗るのだが、当事者にとっては必然性や現実を解き明かしたって苦痛が癒やされるわけではない。理論的な分析はある意味残酷である、というのは、そういうシステマチックな理解は一般化を通してしまって、個人の感情を濾過して取り除いてしまうことが多々あり得る、ということなのだと思う。だからこそ、たとえば物語などを通じて残酷な立場を追体験することで感情を伴わせないと、真に当事者には寄り添えない。シンパシーとエンパシーの違いの構図とも近しくて、理屈の咀嚼をしないと考える舞台にすら立たない的な意味ではもちろん大事なのだが、あくまでその残酷な立場にいる苦しさをコミュニケーションの先鋒に据えられないと問題を抱える当事者に触れられずに終わる、みたいなことになり得る。システムはあくまでシステムでしかなく、そこに如何に人の感情がどう向いてしまうかを考えられるか。既存の事柄へ介入するときに必要な観点だと思った。それには物語として没入させることが効果的かもしれないし、日記を通じて自分と向き合うことが効果的になり得るかもしれないし、はたまた対話がそういう整理に効くかもしれない。理解というものは常に重要な考え方及び姿勢なのだと思うのだが、それらを中途半端に取り扱うことで時に自らのガンになり得る。大事なのは、そういった理解の進んだ知性を持つことに余計な自負を持たないこと。無知の知を常に意識すること。常に状況は変化していることを理解し、アップデートを疎かにしないこと。それでいて、自分が裁く立場に不用意に立たないこと。そういうマインドセットが寄り添うこと、すなわち連帯をする姿勢を示すことなのかもしれない。