Aでも非Aでもない
安藤昌益の考え方として、Aでも非Aでもないというものがある。 何かを語るとそれ以外のものが生まれそれで世界全体が構成されるということになるが、
例えば人を助ける場合、その助け方に精神の深さが現れ、それがAでもAじゃないものでもないという価値の表れだという。 この「精神の深さ」というものを考えれば、Aや非Aについて語らないからと言って何も起きないということにはならない。
仏教も儒教も何もかも認めない、そうすると何もない、何も起きないということになるが、
そこで深さを認める
これは世界の表面というか地表での現象とか表現とはまた別にもう一つ上下方向の空間次元を設定してそっちに入っていく態度と言えるかもしれない
一方で、親鸞はそこでちょっと手伝ったところで本当の意味でその人を助けることはできないのだから助ける助け内はその時の心の持ちようでしかなくて、そこでの振る舞い一つでそいつがどうだということはできないという発想。 参考、「日本アンソロジーについて」吉本隆明