25/05/14
保坂小説論、出し惜しみすな
今の時点で書きたいことを全て出し尽くす詰め込む、それはぼやっと広くなってしまうことではなく、ポイントはある程度に絞りながらそこに今言いたい話を全て載せるというイメージ
おもろ、風景ってそういうことか、現実世界の物理である風景の記述によってのみ書き手の世界の見方が表される
書き手の身体を通した手触りや感触を表現できるのは風景ってこと
次の本でエネルギーの湿地とか地球を包むとか太陽の周りをまわるようにとか言ってたのは全部こっちからの見方現実を記述してる
それが風景ってこと
そうなると割と風景書いてることになるか
物理的な幾何学としての風景という感じ
重力場で空間が歪むとかも風景の記述と言える
本当の「特技」や「個性」というのは、「今日は一日何もしなかったわ……」と思わず自己嫌悪になってしまう日にやっていることだったり(例:1日12時間Twitter見るとか)、「えっこれって皆は知らないの?」と思うようなことだったり(例:犬の種類を20個くらいすらすら言えるとか)、するのです。
やりたいことないと言いながらなんかはしていてそれはやりたいことで得意なこと
やりたいこと分からないと言って哲学書を読むのは変
暇やから友達に連絡するってアプローチもあるわけで
自分で読みたい本を作る、これでしかない、こんな本あって欲しかったというやつをひたすら作っていく
主体的に変形させられにいき、自然に組み込まれて機能している状態がいっちょまえ、なるほど、どんな歯車になりたいのですか、という話と同じ
「いっちょまえ」であるということは、 腰痛であり、過剰な筋肉であり、俊敏な神経であり、 不必要なまでの注意深さであり、豊かすぎる感受性である。 不健康とさえ言えるほどの「変形」があってはじめて、 自然(世間)は「この人(部品)がいなきゃ」と価値を認めてくれる。
そういえば文章を読んだ周りの人によくかけるなって言われるのも、普通に生きてる状態と比べた時の不自然な発達や変形が感じられたということ。
そうなるといよいよマジやねんなということになってくる、
あれ、昨日考えたことを取り上げてその下にまた書いていくと一つのコンテンツになるのでは