限界芸術論の「限界芸術論の理念」で言及されている思想家、哲学者
限界芸術論の「限界芸術論の理念」で言及されている思想家、哲学者
デューイ
それにしても、飯を食うという行為は、美的経験だろうか。今までの論法でゆくと、生きるという経験全体が、美的経験によっておおわれてしまうことにならないか。潜在的にはそうだ、と考えてよいと思う。だが、すでにデューイの指摘しているように、毎日の経験の大部分は美的経験としてたかまってゆかない。このために、美的経験としてとくに高まって行く経験だけを、狭い意味での美的経験と呼ぶことにする。
プロール
直接的価値とほとんど道着後のように見えるこの広い意味での美的経験が、もっと狭く美的経験にむかって高まってゆくためには、なおいくつかの条件を必要とする。一つは、プロールの指摘している尺度の問題である。
オルダス・ハックスリー
においの場合も、ほとんどおなじなので、オルダス・ハックスリーが「すてきな新世界」で描いたようなにおいいりの芸術は、現在のままでの人間の構造がかわらぬうちは、成立しにくい。
サンタナヤ
また、経験の持主の感情が、その鑑賞しつつある対象に移されて対象の中にあるかのように感じられる。サンタヤナの言葉で言えば、「美とはモノの形にかえられた快楽」ということになる。
ランガ―、クローチェ
美的経験は、人間の経験一般の凝集であるとともに、経験一般からの離脱反逆でもあるわけだ。ここに、美的経験が、美的感動をともなわない他の経験とちがっていて、もっている一種の観念性がある。このゆえにクローチェは、美と直観の同一性を強調し、ランガ―は、美的経験には幻影がつきものであることを指摘した。
クームラズワミ
「すべての芸術家が特別の人間なのではない。それぞれの人間が特別の芸術家なのである」というクームラズワミの言葉は、芸術の意味を、純粋芸術・大衆芸術よりもひろく、人間生活の芸術的側面全体に開放するときに、はじめて重みをもってくる。
このような限界芸術のとらえかたは、二十世紀初頭のジョン・ラスキン、ウィリアム・モリス、エドワード・カーペンター、ハヴェロック・エリス、アナンダ・クームラズワミ、の著作に見られ、われわれと同時代の仕事としては、エリック・ギルやハーバート・リードの著作に見られるものであるが、日本においても独自の発展を見ている。