イギリスにおける宗教改革から責任内閣制までの流れ
250916
名誉革命からスタートしよう。たまたま目に入った本棚の『贈与経済2.0』を軽く眺めてると、名誉革命以後、ロックの思想をベースに近代社会が築かれていったという話があり、そもそも名誉革命とは何だったのかと気になったので、ここを調べるところからスタートする、この辺の16~17世紀の世界史がテーマになりそうな気配。
一時間半ぐらいイギリスの宗教改革から名誉革命まで調べていたが、だいぶおもろい。王政からどうやって責任内閣制が誕生していくかの流れがここにはあって、そうなると、そこでロックがそこの統治の理論を整備していき、さらにこの辺りのヨーロッパの年表を見ていくと、重農主義のテュルゴーとか、カント、アダムスミス、リンネも出てきて、登場人物の一人一人がかなり強い。
というわけで、大体の流れを書いていく。
ちなみにこの動画はかなり参考になる。
https://www.youtube.com/watch?v=YVPT5SEmA9I
まず、1600年代初め、イギリスの国王がジェームズ1世だったところからスタート。彼はイギリス国教会を信じていたのでカルヴァン派の人々を弾圧した。
イギリス国教会はイギリスの国王をトップとするキリスト教の一派のようなもの。そもそもキリスト教は各地に広がっていく中で、教皇や聖職者の権威が強くなりすぎて、腐敗していく部分が出てきた。で、そういう権威とかじゃなくて、「個人がちゃんと聖書を読んで各自でしていくことに価値がありますやん」、と言ったのがルターとかカルバンに代表されるプロテスタント。ここが、伝統的な権威を重視するカトリックから分離していく。ルターは1517年に「九十五か条の論題」を発表してキリスト教の現状を批判したが、その時イギリスの国王であったヘンリ8世はもちろん権威側なのでルターを批判する。かなりのカトリック側。が、王妃との間に男が生まれなかったので別の人と結婚しようと、離婚をしようとするが、ローマ教皇に反対される。なので、「じゃあカトリックとかええわ」ってことで、イギリス国王をトップとする新たな教会に分岐する。これがイギリス国教会。
で、お次のチャールズ一世もピューリタン(プロテスタント側)を弾圧するが、議会はカルバン派(プロテスタント側)多数だったので反発される。近隣のスコットランドのカルバン派もイギリス国教会を強制されることに反発。これを弾圧しようとするが金が必要なので課税しようとする、が、もちろん議会では却下。そんな中で、もうこの国王ええわってことでクロムウェルというカリスマ風の人が出てきて国王を処刑する、これがピューリタン革命。が、このクロムウェルも暴走して独裁を始めたため、死後、やっぱり王様がよかったやん、ということで、チャールズ二世がオランダから連れてこられる(王政復古)。でもそのチャールズ二世は議会をないがしろにして「カトリック万歳!」と言い出したので議会は「はぁ」ってなって、その弟のチャールズ二世も国王になった時また同様の振る舞いをしたので追放して娘のメアリ2世と夫のウィレム3世を連れてくる(血を流さず王様が無事変わったので名誉革命)。で、議会はまた自分たちの権利を宣言し、彼らはそれを受け入れ、これが1689年権利の章典という形で明文化される。
ちなみに、高校受験の時にちょうど百年刻みで覚えやすかったのが、1689年権利の章典、1789年フランス革命、1889年大日本国憲法公布
メアリ2世の後女王になったアンは子供がいなかったので、死後また別のところからジョージ一世に来てもらって国王となるが、英語がよくわからなかったので、議会の中の多数派が内閣として王の代わりに政治を行い、国民の代表である議会に対して責任を持つことになる。これが責任内閣制。そしてその最初の首相がジョンポール一世。
で、この統治に関して理論的な正当化を行ったのがロック。というわけでこのロックの思想をベースにして近代社会というか近代的な統治の形が整備されていく。ここからアダム・スミスが経済的なことを考えていったり、その経済との関連である重農主義の代表格ケネーとテュルゴーもこの後出てくる。農業方面に進めば安藤昌益とか二宮尊徳とか宮沢賢治に続いていく。経済で言えば、吉本隆明が経済学をベースにして文学の価値を考えていくところから、文学とか芸術方面に伸ばしていくこともできる。リンネが動植物の分類をしたのもこの辺りで、ここからダーウィンの種の起源とか、さらにその別軸として今西の自然学、などなど盛りだくさん。