音楽は否応なく音声ファイルの一つとして、伝説や物語から切り離された音響として、古今東西の音と等しくアクセス可能なものとしてインターネット上を浮遊しているのである
音楽は否応なく音声ファイルの一つとして、伝説や物語から切り離された音響として、古今東西の音と等しくアクセス可能なものとしてインターネット上を浮遊しているのである
ポスト・インターネット時代──ゼロ年代後半以降
レコードやCDとしてリリースされた音盤は、すでにこの世を去った阿部薫の音楽を聴覚によって検証可能としたものの、数年経つと廃盤となることもあり、一般的なリスナーにとってはアクセスすることが難しい作品が多かった。しかしインターネットの普及はこうした状況を大きく変えていく。たとえば以前、とある海外のミュージシャンと会話した際、阿部薫の話題に花が咲いたことがある。その人物はアルバムをほとんどすべて聴いたことがあるというものの、聞けば自宅の近くに日本のマイナーな音盤を置いているレコード店はなく、フィジカルで所有することなくインターネットを通じて阿部薫の音源を聴き込んだらしい。たしかに骨董品として不当な高値で取引されている音盤は、マニアならいざ知らず、端的に阿部の音を聴きたいという異国の地で暮らすミュージシャンにとって、手の届く距離にあるものではないだろう。そしてそうした時代にあって阿部の音楽は否応なく音声ファイルの一つとして、伝説や物語から切り離された音響として、古今東西の音と等しくアクセス可能なものとしてインターネット上を浮遊しているのである──むろんそこにステレオタイプな日本趣味の眼差しを向けられることが皆無だとは言い切れないものの。いずれにせよかつて阿部が求めたような、既存のジャンルやイメージとしての音楽ではなく端的に音そのものであることは、いまや聴取環境の条件の一つとなっており、あらゆるしがらみから遠く離れて彼が残した音楽を聴き、演奏技術として模倣し、あるいは音響現象として検証することが可能な時代を迎えている**。
(註) ** ところで阿部薫の音楽がときに難解なものとして一般的なリスナーを遠ざけてしまうことには、少なくとも「価値基準の複数性」と「神秘化」という二種類の要因があるように思われる。前者はたとえば運指の速度やアタックの強度、ノイジーな音色など高度な演奏技術の快楽的側面に加えて、ノスタルジーを喚起させる旋律の引用や間を重視した表現主義的なアプローチ、あるいはどんな快楽にも寄り添うことのない非イディオム的な即興演奏、さらにアルト・サックスを用いた圧倒的な個性とは真反対をいくような匿名的な多楽器主義など、一つの評価軸には回収することのできない、場合によっては矛盾し得る複数の価値が彼の音楽には同居しているのである。後者については阿部薫存命中に代表作をプロデュースした間章による晦渋なテキストはもとより、80年代後半以降の再評価時代に一部の支持者が実際にライヴを経験しない限り検証不可能な現象を説明抜きで称揚したことも挙げることができる。たとえば1991年に放送された深夜番組『PRE STAGE・異形の天才シリーズ①〜阿部薫とその時代〜』で議論された「演奏していないにもかかわらず、音が出ている」というあたかも耳音響放射のような体験を「わかる人にはわかる」と片付けてしまうことは、その真偽を検証することのできない後続の世代には知り得ない「神秘」を否応なく呼び込んでしまう。そして以上のような「価値基準の複数性」および「神秘化」のいずれにおいても、一般的なリスナーが聴くことを楽しもうとするや否や「阿部薫の魅力はそんなところにはない」というエリート主義的な文言が壁のように立ちはだかってきたのである。しかし本稿で主張しているように阿部薫のサウンド像に「真の姿」などというものは存在せず、どのような価値基準の側面であっても、あるいはたとえ録音物であっても、それぞれのリスナーがそれぞれの視点から魅力を感じ取ることができるはずだ──むしろそのように非エリート主義的な開かれた音楽である点が阿部薫の最大の魅力だと言えるのではないだろうか。