鉄鼠
#2025年を探さないで
https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2025/12/01/000000#鉄鼠
『鉄鼠の檻』
「彼の者はそう、牛だ」
「牛?牛でございますかな」
「左様。そして彼の者が牛なら —— 」
「牛なら?」
「 —— 拙僧は鼠だ」
鼠 —— 声はそう云った。
( 『鉄鼠の檻』文庫版 第1章 pp.14-15 )
鉄鼠
「賴豪のことかい?」
しかし古書肆はあっさり答えた。
「なんだ?鼠の坊さんまでいるのか!」
「君は本当に日本人なのか?鼠の妖術といえば坊主。坊主の妖術といえば鼠。平安の昔っからそう決まっていようが」
彼はそう云ってから大儀そうに立ち上がり窓辺に置いてあった彼の鞄から何か取り出して元の席に戻ってきた。どうやら和綴の本であるらしい。古書特有の香りがすうと漂う。
『百鬼夜行』だった。
( 『鉄鼠の檻』文庫版 第2章 pp.227-228 )
https://gyazo.com/1d5090e2c345f25b690aeb291adef10e
( 鳥山石燕『図録百鬼夜行』/ 百鬼夜行 3巻拾遺3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2553975/1/23/ )
鉄鼠
賴豪の霊
厳と化と
世にしる所也
( 百鬼夜行 3巻拾遺3巻 - 次世代デジタルライブラリー https://lab.ndl.go.jp/dl/book/2553975?page=23 )
阿闍梨 賴豪
「それが鼠妖術の総本家たる天台宗園城寺派の高僧 實相房阿闍梨賴豪だ」
「これは人なのか?鼠なのか?その賴豪と云うのはどう云う坊さんなんだ?」
賴豪は平安の末の人で藤原宇合の末裔長門守藤原有家の子だ。幼くして出家し、長等山園城寺の権僧正真譽の弟子となった。顕密共に善く学び、碩学と謳われた得の高い僧で、おまけに霊験あらたかな法力を持っていたと云われる」
天台宗 園城寺
「随分と偉いお坊さんじゃないか。園城寺と云えば何だ、慥か凄い寺だろう」
「天台宗寺門派の総本山だね。俗に云う三井寺だ」
「ああフェノロサの墓のあるお寺か」
「君はどうしてそんな知らなくてもいいようなことを知っているんだろうな。寺は観光地じゃないんだから、もう少し他の覚え方をしろよ」
「そんな云い方をするなよ。まだ他にも知っているぞ。慥か近江八景のひとつだ。『三井の晩鐘』とか云う鐘があるだろう」
「そうやって日本文化を博物学的に捉えるような真似は止せよ。外人でもあるまいし」
「せめて比叡山と対立した寺だね、くらいのことが云えないのか?」
「比叡山って、その園城寺も天台宗なんだろ?比叡山と云えば延暦寺、延暦寺も同じ宗派の天台宗 —— おい、天台宗なら叡山の方が本山じゃないのか?最澄が開いたんだからそっちが大元だろうに」
山門、寺門
「本当にものを知らないな。三井寺は元元天武の頃に建立された古い寺で、大伴氏の氏寺だったんだが、大伴氏の衰退と共に荒廃し、二百年近く経ってから天台の学匠智証大師圓珍が延暦寺の別院として復興したのだ。以来天台根本道場であり、また三井修験道の発祥寺としても知られる」
「しかしこの圓珍の弟子と比叡山圓仁の門下は、まあ君が解るように云えば、仲が悪かった」
「叡山方を山門、三井寺方を寺門と呼び、五百年近く抗争は続いた」
「同じ宗派でか?それは経典の解釈を巡っての異端審問のような —— 」
文字通りの抗争だよと彼は云った。
「だから抗争さ。焼き打ちを掛けたりする」
「それじゃやくざじゃないか。坊さんだろう?しかも同門じゃないか」
「同じ宗派だからこそ争いが起きる場合だってあるんだ。一枚岩の宗派と云うのは少ない」
「兎に角、山門派と寺門派は相争っていた。そして賴豪は寺門派の高僧だったのだ」
( 『鉄鼠の檻』文庫版 第2章 pp.230-232 )
『延慶本平家物語』第三の十二
「君は『平家物語』は読んだかね?
「読んだような。読まないような 」
「情けないなあ。平家物語の異本の一つ『延慶本平家物語』第三の十二に賴豪に就いての記述がある。『白河院三井寺賴豪に皇子を被祈事』という段だが —— 梗概を云うとこうだ」
「中宮賢子に皇子が生まれるよう白河院が賴豪に祈禱を依頼した。恩賞は思いのままにと云うのが条件だ。賴豪は先にも云った通り呪術もお得意の坊主だから、祈禱一発、効果覿面で敦文親王が誕生した。約束だからね、さて何でも望みを申すが良いと云われて、賴豪は何と云ったかと云うと、三摩耶戒壇建立の勅許を願い出た」
「ははあ、政府公認の宗教になりたかったのだな」
「何だその表現は?平安の話だぞ。ともあれ戒壇の建立と云うのは山門寺門抗争の中心的な問題だったのだからね山門側は大いに色めき立った。白河院はこの場合どちらにも肩入れをしたくなかった訳だ。金や地位や名誉ならやるが、それだけは駄目だと云ったのだね。比叡山に遠慮したんだ。この嘘吐きめ —— と賴豪は怒り心頭に発し、魔道に堕ちると宣言して食を断ち憤死してしまう。生まれた親王も四歳で急死。賴豪が祈り出した皇子だからあの世へ連れ戻したのだと云われた」
「おい、鼠はどうした?」
「この話には後がある。餓死した賴豪は鼠の群れとなって転生し、比叡山の經堂に湧いて経典を喰い荒らした、と云うのだ。『本朝語園』に拠れば、その数八万四千匹 —— これはその絵だな」
「ひもじさのあまり経典を齧ったのか?餓鬼道にまで堕ちたのか」
「そうだ。浅ましき思いが凝り固まったのだ。そこで比叡の法師は一計を案じ、鼠の秀倉、つまり社を祀ってその怒りを鎮めたと云う」
「初めて聞いたぞ。その話は有名なのか」
「有名だと思うがなあ」
古書肆は首を捻った。
同じ話は『愚管抄』巻の四にもあるし、勿論『源平盛衰記』にだって載っている。『太平記』巻の十五『園城寺戒壇事』にも出てくる。
( 『鉄鼠の檻』文庫版 第2章 pp.232-234 )
『太平記』巻第十五「百十五 園城寺戒壇事」
(前略)
角て遥に程経て、白河院の御宇に、江帥匡房の兄に、三井寺の頼豪僧都とて、貴き人有けるを被召、皇子御誕生の御祈をぞ被仰付ける。頼豪勅を奉て肝胆を砕て祈請しけるに、陰徳忽に顕れて承保元年十二月十六日に皇子御誕生有てけり。帝叡感の余に、「御祷の観賞宜依請。」と被宣下。頼豪年来の所望也ければ、他の官禄一向是を閣て、園城寺の三摩耶戒壇造立の勅許をぞ申賜ける。山門又是を聴て款状を捧て禁庭に訴へ、先例を引て停廃せられんと奏しけれども、「綸言再び不複」とて勅許無りしかば、三塔嗷儀を以て谷々の講演を打止め、社々の門戸を閉て御願を止ける間、朝儀難黙止して無力三摩耶戒壇造立の勅裁をぞ被召返ける。
頼豪是を忿て、百日の間髪をも不剃爪をも不切、炉壇の烟にふすぼり、嗔恚の炎に骨を焦て、我願は即身に大魔縁と成て、玉体を悩し奉り、山門の仏法を滅ぼさんと云ふ悪念を発して、遂に三七日が中に壇上にして死にけり。其怨霊果して邪毒を成ければ、頼豪が祈出し奉りし皇子、未母后の御膝の上を離させ給はで、忽に御隠有けり。
叡襟是に依て不堪、山門の嗷訴、園城の効験、得失甚き事隠無りければ、且は山門の恥を洗ぎ、又は継体の儲を全せん為に、延暦寺座主良信大僧正を申請て、皇子御誕生の御祈をぞ被致ける。先御修法の間種々の奇瑞有て、承暦三年七月九日皇子御誕生あり。山門の護持隙無りければ、頼豪が怨霊も近付奉らざりけるにや、此宮遂に玉体無恙して、天子の位を践せ給ふ。御在位の後院号有て、堀河院と申しは、則此第二の宮の御事也。
其後頼豪が亡霊忽に鉄の牙、石の身なる八万四千の鼠と成て、比叡山に登り、仏像・経巻を噛破ける間、是を防に無術して、頼豪を一社の神に崇めて其怨念を鎮む。鼠の禿倉是也。
懸し後は、三井寺も弥意趣深して、動ば戒壇の事を申達せんとし、山門も又以前の嗷儀を例として、理不尽に是を欲徹却と。去ば始天歴年中より、去文保元年に至迄、此戒壇故に園城寺の焼る事已に七箇度也。近年は是に依て、其企も無りつれば、中々寺門繁昌して三宝の住持も全かりつるに、今将軍妄に衆徒の心を取ん為に、山門の忿をも不顧、楚忽に被成御教書ければ、却て天魔の所行、法滅の因縁哉と、聞人毎に脣を翻しけり。
( 太平記/巻第十五 - Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%BA%94 )