遊戯的である方が緻密であり正確
遊戯的である方が緻密であり正確
僕がティモシー・モートンに惹かれるのは、彼が「まだ意味のない方」に僕たちの認識を引っ張り出していく力として、環境の変動を読み解こうとしているからです。「まだ意味のない方」に圧倒的な力で人間の認識を引っ張り出していく学問として、僕は数学に惹かれてきたんですけど、モートンはそれをやるのはこれからは人間じゃないと言ってるんです。『Hyperobjects※4』という本のなかで彼は、「まだ意味のない方」に僕たちを強烈に引っ張り出しているのは、いまや気候とか放射性廃棄物とかウイルスとかではないのか、と言うんですね。 hyperobjects
この本にも書いたように、少なくとも19世紀までは、「まだ意味のない世界」の最前線を開拓していたのは、数学だったと思います。本書では、19世紀まで数学の歴史を描いていたのに、20世紀から認知科学や人工知能の話になり、最後は地球環境の話になりますが、これは、「数学の歴史」を描こうとしたというよりも、「まだ意味のない世界」が開けていく歴史を描こうとしたことの、自分にとっては必然的な帰結でした。
「モノがモノである」というのは根本的に「playful」なことではないかと、今年出版されたティモシー・モートンと文化人類学者のボイヤーの共著『Hyposubjects: on becoming human※5』に書かれていました。彼らは「playful」であることの方が「accurate」だというおもしろい言い方をしています。遊戯的である方が、現実の認識として緻密であり正確なんだと。
hyposubjects / hypersubjects
hypo- / hyper-
生真面目に生産性を追求している方が、現実の大雑把すぎる認識の帰結かもしれない。物質でさえplayfulに動き回っているじゃないかと彼らは語ります。何しろ、あらゆる物質は量子のスケールでは、じっとせず動き続けている。
物質でさえ遊戯的なのだとしたら、遊戯的な姿勢で生きている方が正確なのではないか。彼らが語るのは「正しさ」ではなく「accuracy(精緻さ)」です。遊び心を持つ方が正しいんだとか正義なんだとは決して言わない。ただ、そっちの方が精緻ではないか、と。
数学の最大の魅力はその圧倒的な遊戯性にあって、まだ意味のない領域に踏み込んでいくからこそ、人は遊戯的にならざるを得ない。遊びというのは、既知の意味に回帰するのではなく、新たな意味が見つかるまで現実と付き合うことです。だから、まだ意味のない状況では、遊戯的なモードに入る方が現実的であって、さも意味があるかのように生真面目に振る舞うのは、かえって的外れになる可能性がある。