読者は著者が書いたよりも早いスピードでその本を読むことができる
読むことと書くことはそのスピードと難しさが全然違っててその部分にはかなり大きな非対称性がある。作者が命を掛けて何十年も書き続けた作品を派手に手荒に適当に扱って木っ端微塵に読み散らかすことが出来る。作者じゃなくて読者が完全に主導権を握っている。それが素晴らしいと思う。
本を読むことは、自分が実際に過ごしている時間とは別の時間軸を持つことになる。そして、そのスピードを上げたり下げたり、ページを飛ばしたり戻ったりすることで、時間を伸ばしたり縮めたり早送りしたり巻き戻したり出来る。
作者のスピード(書くスピード、考えるスピード)から逸脱することで、作品や作者の引力から脱出することが出来るなら、速いだけではなくて遅くても同じようなことが起きるのではないか。
「2019年を探す」、バック・トゥ・ザ・フューチャーを引用した。これ実は、書かなかった(書けなかった)「時間を伸ばしたり縮めたりする」話の伏線にしたいと思っていた。「2019年を探す」で自分が書きたかったのは、そこらじゅう始まりだらけの話だったり、何回も何回も繰り返される話だったり、行ったり来たり止まったり進んだりする話だったりした。書けたかどうかというと半分くらいしか書けなかった。
ささやかな逆走ではなくて、そうじゃなくて時間軸は自由に移動出来るんじゃないか、という。グレン・グールドが録音に向かっていったのも、ターンテーブル2台、レコード2枚でビートを延々と鳴らし続けることも、アインシュタインが言っていることも全部つながっている、みたいな(適当)。
本を読むことは、自分が実際に過ごしている時間とは別の時間軸を持つことになる。そしてそのスピードを上げたり下げたり、ページを飛ばしたり戻ったり出来る。時間は相対的なものだ。それは延びたり縮んだりする。発展と停滞というループは歴史の中で何回も何回も、いろいろな場所で現れる。
時間は先送りしたり巻き戻したりスキップしたりリピートしたり出来る。それが明らかになったのは、1980年 VHS とベータマックスの間で繰り広げられた血の流れない世界大戦、ビデオフォーマット戦争が VHS の勝利によって終結したときだった。ハレルヤ。
折込のチラシがついている。こちらにその全集についての解説が載っている。コレクションⅠは「短篇の時間、長篇の時間」。 「長篇小説というのは基本的に伝記であり年代記である。そうではない型式、技法が勇敢な作家たちによって開発されてきた。その代表例が、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』と ジェームズ・ジョイス『ユリシーズ』」。 そして「短篇小説は長篇小説に対して短い時間を扱う。そのために長い時間をカットしたりスキップしたり場合によっては巻き戻したりしている」と。そう、つまり短篇小説はタイムマシン、タイムトラベルなのだ。