自分という存在すら断片のつぎはぎなのかもしれない
自分という存在すら断片のつぎはぎなのかもしれない
そもそもインターネットに限らず自分という存在でさえ画一的というか統合的というか、1コのノードというよりはたくさんのノードがあってそいつらがスパゲティ状に絡み合ったのが自分という感覚がある
昼飯どうしよっかなーって時に焼肉の気分の自分もいれば寿司の気分の自分もいる
時間的にも断片化されている
過去の自分の書いた文章をどういう感情や意図を込めていたかなぞ簡単に忘れてしまうのでもはや他人の書いた文章である
それをこうしていろいろな Scrapbox でブラケットに包むことで自分っぽいナニカが編みあがってくるのか...?
つまるところ、自分という存在すら断片のつぎはぎなのかもしれない
でもこの編みあげることで分断を縫合できるのかというと、それはちょっとロマンチックすぎるのかなあとおもった
「編みあげることで分断を縫合できる」というのは強い物言いかなー 「ばらばらに砕け散るそれらをかろうじて繋ぎ止めることができるかもしれない(できるかもしれない)」くらいの弱さ
できるかもしれない
かろうじて
新明解国語辞典より
辛うじて
カラウジテ
「辛くして」の変化
最低の条件だけをどうにか満たしたかたちで事がなされる様子