私たちは五感を通じて感じながら、その環境に於いて最も有意義な動きを生み出している
私たちは五感を通じて感じながら、その環境に於いて最も有意義な動きを生み出している
私たちを取り巻く環境は一秒一秒変化しており、すぐ右側を肩にぶつかりそうな近さで通り過ぎていくヒトがいるとか、左足で踏んだ地面の石が一瞬グラついたとか、右から強い風が吹いてきたとか、左上の空に鳥が飛んだとか、そういったものを私たちは五感を通じて感じ(Sensory Input)ながら、その環境に置いて最も有意義な動きを生み出している(Motor Output)いるはずです (実際に私が例で挙げたような状況が起これば、貴方は無意識下で自然と歩行の仕方を変えるでしょう?)。
私たちは五感を通じて感じながら、その環境に於いて最も有意義な動きを生み出している
Sensory Input
Motor Output
今回の研究結果はその逆を示している、と言えると思います。特に歩行に代償が生じておらず、乱暴に言うと「様々な感覚入力があっても正常な歩行を完遂できる」ことが当たり前になっていた今回の被験者にとって、人工的な筋力の低下は文字通り大したことではなかったのです。意図的に上殿神経を麻痺させ、中殿筋・小殿筋の機能を一時的に奪ったとしても、「いつもの歩行」の溝がしっかりくっきりそのヒトの中に残っていれば、それは今この瞬間の歩行を変化させるほど大きな要素には成り得ない。Sensory Inputの豊かさがMotor Outputに多様性を保たせていた結果、多少カラダの中のMotorを乱されても、それが歩行そのものの変化を許さなかった、という風に言いかえることもできます。
Sensory Input の豊かさが Motor Output に多様性を保たせていた
多少カラダの中のMotorを乱されても、それが歩行そのものの変化を許さなかった
多少体内の動的能力を奪われても、それをMotor Outputに影響させない術があるって、素晴らしいと思いませんか?少なくとも私はアスリートを対象に仕事をする身ですから、こういった要素を大いに活用しなければいけないと常に考えています。
左カカトが地面に打ち付けられたその感覚入力で左の腹壁、ハムストリング、内転筋と中殿筋の発火が自動誘発されればそれは見事なSensory Input→Motor Outputのシークエンシングだと思いますが、左カカトが奪われたらそれが途端にできなくなります(例: 某シューズメーカーの踵を浮かせるような靴を履いて歩行・走行しているなど)というのであれば、そこに在るのは限定性であって、多様性ではありません。
Sensory Input→ Motor Output のシークエンシング
限定性
多様性
左のカカトが地面に触れられなくても、左の周辺視野にオプティックフローがあれば、頚椎が右に側屈すれば、右の肺尖に空気が入れば、左のアームスイングが前方に起きれば、左の中殿筋が発火します、というくらい感覚入力に選択肢があり、そのどれかひとつの回路に刺激が入れば「いつもの歩行」が完遂できるとしたら、そのヒトは「ちょっとやそっとじゃ乱れない」動的能力を兼ね備えているということになるのではないでしょうか。