文学的な読み
文学的な読みとは要するに、その物語が現実の写しであろうが、あるいは何らかのたとえ話であろうが、そうしたレベルの差自体を自由に選べるという意味です。あるいはそうした複数の可能性を、同時に意識しつつ読むということです。
文学的な読みとは、そうした解釈の水準そのものの設定が、読み手にまかされている場合をいいます。
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ニルス・ファンデルプールのトレーニング・マニフェスト、待ってても誰も解説してくれるわけじゃないので、自分で読み解いてみた。
内容についてはちょっと置いておいて、読み解いているうちに気がついたことがあった。
自分の場合、なにかを読むとそこに書かれていること以外のことを読み取ることが多くて、それはその作者の他の文章のときもあるし、全然関係ない本だったり、歴史だったり全然関係ない哲学だったり科学だったり、どんどん脱線していく。こういう読み方なので読むのが遅くて、そして真っ当な読み方じゃないなと、ちょっとコンプレックスとまではいわないまでも、おかしいんだろうなという自覚があった。
管啓次郎「本は読めないものだから心配するな」の後ろの方にある「翻訳=世界=文学」という章に「文学的な読み」という話がある。
古文書から事実を発見しようとする考古学者、聖書から教訓を読み取ろうとする進学者、数式から原理を発見しようとする数学者、という読み方に対する「文学的な読み」。それは書かれてる文章からの自由さを意味している。
それは行から行へ、ページからページへ、自在に意味をつなぎ合わせる自由だったり、作者の意図に原子レベルまで肉薄したり、太陽系の彼方まで遠ざかったりする自由だったり、本の「冊」という単位を飛び越えてかつて世界に存在した本に接続したり、いつかきっと世界に誕生する本と接続する自由だったり、そういう自由のことだ。
たぶんオレ、ニルス・ファンデルプールのトレーニング・マニュフェストと、ホメーロスのオデュッセイア、同じ感じ、というか、そういう物語として読んでる