我思う、ゆえに我あり
我思う、ゆえに我あり
コギト・エルゴ・スム
デカルト主義について
ところで、よく知られているように、デカルトの哲学の出発点は「方法的懐疑」という新鮮な発想にあった。『方法序説』などで展開されたデカルトの哲学によれば、アリストテレス以来の旧来の科学を根本的に乗り越えるためには、まず一切の日常的信念や科学的知識を白紙に戻して、全面的な懐疑を行う必要がある。そして、全面的な懐疑の後にどのような観念がまだ精神のうちに残っているかを点検してみると、それらはすべて「明晰で判明な観念」であることが分かる。したがって、新しい科学を出発させるためには、われわれはまず全面的な懐疑を行ったうえで、何が明晰かつ判明な観念なのか、を注意しつつ探究を進めればよい。デカルトはこう考えて、懐疑から「コギト・エルゴ・スム」へと向かって、近代的な自我を確立した。 「我思う、故に我在り」(われおもう、ゆえにわれあり、仏: Je pense, donc je suis、羅: Cogito ergo sum)は、デカルトが仏語の自著『方法序説』(Discours de la méthode)の中で提唱した有名な命題である。『方法序説』の他、『省察』、『哲学原理』、『真理の探究』でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。
ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Étienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し、Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum 、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている。