愛と力の話
全てのホロンが二つの衝動を持つ
「力」
この本では、神学者、パウル・ティリッヒの本質をついた著作に従って、力を「生けるものすべてが自己を実現しようとする衝動」と定義した。力の衝動は主張するという行為として現れる。集団の場合、力の衝動は差別化(多様な形態と機能の発達)と個別化(互いに独立して働く部分)を生む。 パウル・ティリッヒ
パウル・ティリッヒ『ティリッヒ著作集 第9巻 存在と意味』に収録の「愛、力、正義」(大木英夫訳、白水社、1978年)
アダム・カヘン『未来を変えるためにほんとうに必要なこと』
「愛」
愛の定義も、ティリッヒに従って「切り離されているものを統一しようとする衝動」とした。愛の衝動は関わるという行為として現れる。集団の場合、愛の衝動は均質化(情報や能力の共有)と統合(結びついて一つの全体になる部分)を生む。
すべての人や集団がどちらの衝動ももっており、一方だけ用いるのは常に誤りであるということだった。愛と力は二者択一の選択肢ではない。これらは相補的な両極であり、私たちは両方とも選ばなければならない。
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あらゆる社会システムは多数の全体から成り立ち、その全体はより大きな全体の一部でもある。作家のアーサー・ケストラーの造語「ホロン」は、全体であると同時に一部でもあるものを意味する アーサー・ケストラー
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最も強い本能は愛だ
ウィリアム・ジェームズは、最も強い本能は愛だと考えた。「数ある性癖のなかで、性衝動には、盲目的・自動的でしかも教えられて身につくのでないという意味において、本能であることを示すきわめて明白なしるしがある」一方で彼は、性衝動が本能だからといって、抑えられないわけではないとも述べた。臆病さなどといったほかの本能が、性衝動による行動を阻止するのである。 雄のプレーリーハタネズミの脳にバソプレシンを注射すると、つがう相手以外には攻撃的になる。ほかの仲間への攻撃は、(雄らしい)愛の表現なのだ
力と愛を交互に使う
バリー・ジョンソンは、解決できる問題というものと、解決できないがやりくりはできる両極性というものを、区別しなければならないと提唱する
私の初期のコラボレーションの認識──調和を受け入れ、不一致を拒否するという意味のコラボレーション──がコラボレーションの適用性と効果を制限していたことがようやく理解できるようになった。この調和一辺倒のコラボレーションを採用しようとすると、たいてい失敗し、結局は「適応」か「強制」か「離脱」に戻ることになっていたのだ。
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協働する場合、愛と力を交互に発揮することが必要だ
まず相手と関わる。関係が続き、濃密になると、やがて相手のなかに融合や屈服、すなわち関係を維持するために自分にとって重要なことを二の次にしたり、妥協したりせざるをえないという不快な感情が生まれる。この不快な反応もしくは感情は、相手が主張したり、強く要求したりする行動に切り替える必要があるという合図だ(アレナスやスズキが自分にとって重要なことを主張したように)
ところが、相手の主張が続き、強くなると、やがては当方に阻止、反対、抵抗の衝動が生まれる。この反応もしくは感情は、双方が関わることに戻る必要があるという合図だ
(この単純化した例では、当事者それぞれに一つずつしか役割を与えていないが、実際は両当事者が両方の役割を果たすこともある)