怨霊と鎮魂
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目次
一、怨霊と鎮魂の祭
二、祟りと恩寵
三、「たまふり」と「たましずめ」
四、芸能による鎮魂
質疑応答
昭和49年(1974年)9月9日
〈靖国問題を念頭に、議論を始めている〉
〈これは「宗教」「信仰」というものが元々は政治、統治の機構として組み込まれていたという部分と、そんなこととはお構いなく日本という国の形が定まる以前から人々の生活の中に死者を弔うという「信仰」の基本的な形、プリミティブな「宗教」の始まりみたいなものが脈々と受け継がれてきているという部分に対しての、
象徴としての「靖国問題」〉
〈前略〉
しかし、庶民はけっして演説をしたり、プラカードを立てたり、評論を書いたりしません。黙っていますけれども、この問題にはやはり一つの意見を持っているわけです。その意見というのは、庶民の持っております霊魂観念を基にした鎮魂の理念であろうと思います。それは、発言はしませんけれども、皆、心のなかに深く秘めているものなんです。しかし、われわれの学問としましては、それが何であるか、ということを明らかにしていくことによって、今後もまた起こってくるであろうところの靖国問題にどう対処していくか、ということに一つの示唆が与えられるのではないかと思います。このような問題の解決には庶民のコンセンサスの上で事が決まる。ただ政治家とか、文化人とかいうレベルで決まることではない、というふうに前置きとして申し上げたいと思います。
鎮魂という問題は、当然怨霊という観念を前提にしますけれども、実は、宗教史の上でもこれは非常に大事な問題であります。神道や仏教あるいは芸能というものが、ほとんど鎮魂の呪術とその教理化、あるいはこれを芸能化したものが非常に多いのです。したがって、鎮魂のほうにできるだけ重点を置きながら、話を進めてまいりたいと思います。
怨霊というと、どうもこわいものばっかりになってしまいますが、常識的には怨霊は、何かの幽霊、お化けみたいなものをすぐに想像します。祟る一面だけしか考えられていないようなものですけれども、それは常識では、非業の死を遂げた死者の霊魂、自分の意志にあらずして亡くなった方の霊魂、——したがって無実の罪などによって流罪になって死んだ、菅原道真のような霊魂——進んで戦争に出て戦死した職業的軍人の霊魂は別として、みずからの意志にあらずして、死にたくないのに戦死した、無名戦士の霊魂などは、やはり怨霊と考えられるんです。少し広く考えますと、実は、死者の霊魂全部が死んでまもなくの間は荒魂あらみたまといって怨霊なんです。しかし、おれは簡単な、短期間の鎮魂で早く恩寵的な祖霊に変わる。というところから出発しませんと、鎮魂の問題というものが浮き上がってまいりません。 死んだ人の霊魂は、最初はやはり怨霊なんですね。よく、お盆の御精霊おしょうりょうさんなんて言いますけれども、新仏あらぼとけと言われるのは、やはり一年か三年は怨霊、あるいは餓鬼(プレータ)として遇せられるものです。まずそれが怨霊の一つのタイプです。 戦時中に、荒魂あらみたまと和魂にぎみたまということを良く言いましたんですけれども、荒魂と言われましたのは、一つの神がありまして、敵を滅ぼすような力を持った一面を荒魂と呼び、そして恩寵と慈しみをもった一面を和魂と呼ぶ、というふうに、江戸時代以降の神道ではそうなっておりまして、戦時中そういうふうに皆さんもお聞きになったと思います。 最近われわれのほうで言っておりますのは、実は荒魂というのは新魂ということ。したがって、死んで間もない霊魂であって、祟りやすい。それが四十九日とか五十日までくらいがほんとうの新魂である。第一次の罪と穢れの清まりがすみますと、和魂に変わっていく。ある場合には一年間は新魂で、そして一年間して「むかわり」と称するのは、生まれ変わりという意味ですけれども、一周忌がすんで霊魂が生まれ変わりますと和魂になる。
こういうふうなのを、われわれは「霊魂昇華説」というふうに呼んでいるんですが、死んでお葬式をする、これも鎮魂の儀式なんです。亡くなった人の霊というのは祟りや荒れすさびがあって、非常に恐ろしいわけですから、これを鎮めるのがお葬式の儀礼になるわけです。お墓というものもはじめはそういう鎮魂のための構造物だったのです。
たとえば墓に立てる花籠や四門のついた棺台というものは、古代のモガリの残存です。犬ハジキとか狼ハジキという竹串を埋葬の折に挿し立てるものもこれです。
そしてそれが初七日、二十七日、四十九日というふうに、お祭りをするにつれて、その人の生前に持っておりました罪が清まるとともに、祟りの面が少なくなっていって、そして恩寵的な面、子孫を慈しむ、残った家族に幸いを与えるというような恩寵的なものがふえていくわけです。それが和魂のほうで、それがだいたい四十九日とか一周忌とか、あるいは三回忌というふうに、階段的に考えられているのが、年忌とか年回と言うものです。
したがって、人が死ねばそこに一時的には必ず怨霊ができるわけです。その怨霊のほかに、もう一つのタイプ、先ほど申しましたような、非業の死を遂げた人びとの霊魂。それからもう一つのタイプがありまして、これは、だいぶ年数が経ったんだけれども、子孫や縁者の祭り(まつり)を受けない、あるいは遠方で死んで縁者がその死を知らないために祭ってもらえない。それで生前の穢れが清まらないままにうろうろしている怨霊です。こんなのを、ふつう餓鬼と呼んだりします。 ただ餓鬼という言葉は、飢えたる鬼ですけれども、これはインド、あるいは中国でもってできた観念です。しかし平安時代や中世の人びとは、至るところにこんな餓鬼が目に見えないけれどもうろうろしておるんだということを信じていました。日本では、平安末期にできた「餓鬼草紙」という絵巻物がその姿を描いております。人が御馳走を食べているところにも、人がお産をしているところにも、あるいは、ご不浄へ入っているところにも、目に見えない餓鬼がおるところが描かれております。至るところにうろうろしておって、何かあると祟る、というふうに、これもやっぱり怨霊の一つなんです。
そういう、うろうろしております霊、非業の死を遂げた霊、あるいは死んで間もない霊、こういう怨霊を指しまして、平安時代には「御霊ごりょう」という名前で呼んでおります。もとは「オンリョウ」と読んだのかも知れないと思いますが、ふつうわれわれは「ゴリョウ」と読んでおります。 そこで、そういう霊を集めて、鎮魂するわけですが、鎮魂するということの前にもう一つ手続きがあります。それは、こういう御霊が何かの災いを起こす、その家に不幸がある、あるいは社会に災害、疫癘えきれいがあれば何か御霊のしわざと考えます。したがって社会に饑饉(飢饉)がある、疫病がある、そういうことが起こりやすい春の終わり(三月)とか夏の終わり(六月)とか、土用の間とか言う時に、御霊会ごりょうえという鎮魂の祭りが行われてきたわけです。これが三月の鎮花祭(やすらい祭)であり、六月(いまは七月)の祇園御霊会(祇園祭)であり、八月(いまは九月)の八幡の放生会、九月(いまは十二月)の春日若宮のおん祭などになったのです。 祇園祭も、いまでは観光の呼び物で派手になりましたけれども、明治維新前までは、祇園御霊会でありました。祭とは言わなかったのは仏教的要素が入っているとともに、祭の対象がいわゆる神ではなかったからです。盂蘭盆会(お盆)が死んだ精霊を祭るのと同じことです。 そういう死者の霊魂、死んで間もない霊魂、あるいは非業の死を遂げた霊、子孫の祭りを受けられず祟ろう祟ろうとうろうろとしている霊、こういうふうなものが、饑饉、疫癘をもたらすかもしれないので、これを祭り、芸能で鎮め、海や川や山へ送り出してしまう。これが御霊会なのです。京都の祇園祭では賀茂川へ送り流したし、大阪の天神祭では淀川へ流すのが「鉾流し」です。これは大念仏でもおなじことで、謡曲の「隅田川」では、梅若丸という子供がかどわかされてきて、隅田川のほとりではかなくなった塚でこれが行われます。狂女になったお母さんがそのあとを追いかけてきて、大念仏のところに行き合わせてます。しかし村人の念仏では現れない亡霊が、お母さんが念仏を唱えると、塚のなかから、子方の姿で梅若が現れて、お母さんと念仏を唱和する。そしてそこで成仏といいますか、鎮魂されて消えていく。
大念仏というものは、もちろん鎮魂の、御霊会と同じように、一番一般的な仏教の鎮魂の仕方であるわけですけれども、そういうのは非業の死を遂げたものに多く行われたのは、やはり怨霊のもたらす災害を恐れたからです。
〈略〉
恐山のお祭りはいま七月二十日から二十四日まであります。あのお祭に行ったらわかりますように、イタコの霊の口寄せを頼む人は真剣に霊の思い残した怨をきいてその供養をしてやろうとします。頼みにくる方は今日では交通事故で亡くなった人の家族が圧倒的に多いようですね。
そうしますと現代でも、そういう気の毒な死者のためには、やはりそれを怨霊と考え、それを鎮めなければならないという庶民感情は消えておらない。そういう怨霊、御霊の考え方が庶民の間にはあるということは考えておかなければならないことだと思います。
昔ですと、疫病のあとには必ず大念仏が行われる。空也の踊り念仏として歴史に現れてくるのも、疫病の後の大念仏だったのです。 それからもう一つは、先ほど大前提で申しましたような、戦争で亡くなった方の霊、やはりこれは怨霊として遇せられたわけです。人びとがその戦争の悲惨さを記憶しているかぎり、そういう怨霊はいついつまでも祭り鎮めなければならない、という観念が古くからありました。
たとえば現在、浜松付近に「遠州大念仏」というものがあります。だいたい三十ヵ所くらい現在残っておりまして、七月十五日には、三方ヶ原の古戦場に近い、犀ヶ崖さいががけの宗円堂というところに大念仏の人達が集まって、毎年大念仏の踊り念仏をする。これなんかは、三方ヶ原の合戦の時に武田方の謀略にかかりまして、徳川方の軍勢が犀ヶ崖というところにかかておった布橋を渡る時に大勢落ちて死んだ。それは物語ですけれども、まさか布でかけてあった橋を軍隊が渡るはずもありませんけれども。そして落っこちて三千人死んだ、というふうなことになっております。おそらく戦士者のことをいったのでしょう。ところがその後、人がその崖の下を通ると、必ず怪我をする、あるいは、夜うなり声が聞こえる。それを鎮めるにはどうしたらいかというと、宗円という旅の坊さんが、大念仏をするにしくはない(及くはなし)ということをすすめて、遠州大念仏が始まったといい、いまだに続いているのです。これは静岡県から愛知県にかけて広まりまして、非常にたくさんの大念仏が残っております。 こういう大念仏は、いま民俗芸能なんていう名前で「ふるさとの歌祭り」みたいなところに引っ張り出されるようになっていますけれども、本来は、そうした戦死者や非業の死者のための鎮魂に行われたものであったわけです。もちろん宗派にかかわりなしに、全国いたるところでたくさん行われております。
それからもう一つ、長篠の合戦の古戦場ですが、ここがいまは愛知県の新城市というところになっており、それから鳳来町というところにかけまして、「法下ほうか念仏」という名前で、やはりその霊を慰める踊り念仏が行われております。 これは、大きな団扇を背負いまして、踊り手が四人ですけれども、大、念、仏という字をそれぞれ書いた三メートルくらいの大団扇を背負い、三人がそろって大念仏ということになります。一人は母衣ほろといって籠に布をかけ造花や垂(シデ)をつけたものを背負って踊るんです。四人の踊り手がが激しい跳躍乱舞の踊り念仏をやる。こういう団扇というふうなもの、これは謡曲の「放下僧ほうかぞう」というものも、やはり団扇を持って、団扇の禅問答があります。これはあとで鎮魂の方法で申しますように、そうした霊というものは、一つには、暴れないようにその霊を圧えつけなければならない。激しく地を踏むことによってそれを圧える。鎮圧といいましょうか、どうも鎮圧というと暴動みたいになってきますから、僕はそれを「抑圧呪術」という言葉で表しているんです。 もう一つが、追い払うということですから、団扇のようなもので追ったり、「采払い」(塵払い)のようなもので追ったりする、これは「攘却じょうきゃく呪術」と呼んでいます。 第三番目が「封鎖呪術」というものです。先ほどいったモガリなどは青い木の枝を立てまわしたり垣根を結ったり、竹串を刺したり、霊屋というスキマのない建物を建てたりして封鎖する。
だいたいこういうふうに三つに分けて鎮魂するんです。恐ろしい霊ですから、最初はそれをいちおう圧えつけて暴れないようにする。それから、おとなしくなったものを、村なり、共同体の外へ送り出す。あるいは海へ送り出す。それからもう一つは、その霊のおるところを、いろいろな宗教的なマジカルな構造物でもって、覆いまして、外へ飛び出さないようにする。そういうことをするんです。法下大念仏なんていうのは怨霊を追い払うほうにあたります。
そのほかに、「火踊ひおんどり」と言いまして、長篠の古戦場の無名戦士を葬った塚の周りで、大きな松明を持って大勢の村人が踊る。これも、古戦場にはたびたび大きな蜂が出て、人びとを傷つけるので、それを鎮めるためというふうに説明しています。怨霊がその場合は、蜂の姿で現れる、という考え方があるのです。 大念仏には、怨霊の口寄せ巫女にその戦の由来を語らせて、亡霊の怨念をはらそうとするので軍記物にむすびつきやすいのです。そのことが壇之浦の古戦場において行われた時、盲僧の平家琵琶のもとになりますね。「平家物語」の起源についてはいろいろな説がありますけれども、僕はずっと前から怨霊鎮魂のための大念仏の場で語られたものだという説をもっております。 最近『「高野聖」』の改訂版を出すので、少しその部分を加えましたけれども「平家物語」は灌頂かんじょうの巻が中心だという理由がそこにあるのです。国文学史のほうでは灌頂の巻特立というのは、あとからの付け加えみたいに言いますけれども、やはりなんといってもこれは中心なんです。「平家物語」が鎮魂の語り物であるということを現すのが、この灌頂の巻ということになります。 灌頂の巻は、いわゆる大原御幸から六道ですね。六道のところで、平家一門の壇之浦の苦しみは六道の苦しみである、つまり地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天人道の苦を清盛入道の積み重ねた罪の報いに受けるわけです。天人道というのは天人の五衰があるからやっぱり苦しみだと解釈しておりますし、「海の底の都」すなわち龍宮へ安徳天皇は行かれたけれども、これは「龍畜経りゅうちくきょう」に説かれた畜生道で、その苦しみがあるから供養しなければならない。平家一門が怨霊化して受ける六道の苦しみをどう救うかというところに、語り物としての「平家物語」の主要な目的があった。 灌頂というものにはいろいろな種類があります。一番ふつうの灌頂というのは、密教のほうで、一人前の阿闍梨になるために受ける伝法灌頂と言いまして、一人の修行僧が大阿闍梨というもおから、頂に水を注いでもらう。ちょうどキリスト教の洗礼と同じようなことをするんです。そうすると、その人は特別な人格に変わって即身成仏する。そのような手続きで特別な資格を得た盲僧が灌頂の巻という「平家物語」の最後のところを語る資格ができるのだという説がありました。これは山田孝雄という、かつての国文学の大御所の先生が立てた説なんです。 しかしこれでは、この灌頂の巻と、平家一門の鎮魂の意味が出てこないですね。特別の資格のある者でないと鎮魂できない、ということに解釈すればできんこともありませんけれども。
これが室町から江戸時代になりますと、瞽官こかん制度(当道座)ができまして、盲僧を検校けんぎょうとか、座頭とかに任官させる。その瞽官制度にともないまして、積塔会せきとうえとか「お経流し」という行事が固定してくる。この時に、平家を語り、灌頂の巻を語ることが江戸時代まで行われます。これは『当道要集』という本にくわしくそのことが出ておりますが、積塔会は年に二回ありまして、2月11日、12日がふつうの積塔会、それから6月19日に行われますのが、座頭の夕涼み、という名で呼ばれる積塔会です。賀茂川の河原に出て、河原に石を積みまして、そこで平家を語る。これは何かの供養にしていることは明らかで、つい戦後まで、京都では、大文字の日の精霊送りに賀茂の河原に一般の人も石を積んでおりました。だいたいこの石を積むということが、実は鎮魂の重要な手段なんです。賽の河原の石積みは怨霊鎮魂の手段だったのが、あのような悲しい物語の和讃になったのです。 盲僧が平家物語を語るもう一つの「お経流し」は3月24日で、この日はまさしく平家壇之浦滅亡の命日なんですから、平家の怨霊鎮魂であることがはっきりしています。
お経流しというのは、法華経をたくさんの経木きょうぎに一行ずつ写して、それを賀茂川に流す。何千本というものになりますが、同時に琵琶を弾奏して平家を語る、ということが行われた。『当道要集』ではこのお経流しのほうに「安徳天皇お弔いのためなり」ということが書かれてあります。これはまさしく平家の怨霊の鎮魂であるということを、片鱗ですけれども示しているといってよろしいでしょう。 これは実は灌頂なのでして、も水を灌そそがれるのは平家の怨霊なのです。このような灌頂というのは、節目正しい仏教ではなくて、民間の仏教、庶民仏教なのです。いわゆる民俗的仏教ではこれを「流れ灌頂」というのです。『七十一番職人尽歌合』ではイタカという放浪者が賀茂の河原でこの「流れ灌頂」を亡き人びとの供養にすすめ、五輪形の経木塔婆を流している絵があります。結局、平家の灌頂の巻というのは、「流れ灌頂」によって、怨霊化した平家一門を鎮魂しているんです。 要するに戦場、古戦場というようなところでは、怨み死した怨霊がつねにおるからして、それの鎮魂のために、大念仏が行われ、これにともなって、流れ灌頂が行われ、その滅亡のありさまを語る平家琵琶が弾奏される。というふうな鎮魂の行事がだんだんと芸能化しまして、盲僧琵琶が独立して大念仏から離れて観賞用だけになった、そういうふうに変わってきたと考えられます。
霊と神との中間的存在
犠牲者へのうしろめたさ
祟る神としての鬼
神楽・鬼・天狗
水の神と火の神
地神・天神・稲荷
若宮八幡
祇園の牛頭天王
平安時代の八所御霊
鎮魂についての最初の考察
「たまふり」のための神楽
天皇の霊でも怨霊になる
死の穢への恐れ
死ぬ前の招魂と死後の招魂
鎮魂のために歌舞を奉る
御霊会のいろいろ
殯の型
御霊会の田楽
風流笠による怨霊の封鎖
精霊流しと盆踊り
六斎念仏
宗教儀礼と鎮魂の意義