屋久島の縄文文化
屋久島の縄文文化
vol.17
そんな連なりの先に見えてきた屋久島は、九州の最高峰として知られる宮之浦岳(1,936m)がほぼ中央に位置し、海上のアルプスの名で呼ばれている。その屋久島も時を遡ること約7,300年前(縄文時代早期)には、北へ約40kmの海底にある鬼界カルデラが大噴火を起こした際に、島中が火砕流に覆われたであろうと言われている。その時に森がすべて失われたのかどうかは定かではないようだが、鬼界カルデラから大量のミネラルが運ばれたことが、その後の森の形成に大きな影響を与えたことは明らかで、今の屋久島が生きている由縁となっている。
そんな島の成り立ちを思うと九州南部同様に、屋久島の縄文文化も壊滅的なのではないかと想像していた。しかし、島の北部を訪ねてみると一湊松山遺跡という縄文時代前期から弥生時代(約5,500年前から2,500年前)まで続いたとされている遺跡が見つかっている。おそらく、ある時代には火山の影響により島に暮らすことが困難であったであろうが、長い年月を経て、人々は再び島に帰ってきたということだろう。
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長い時間の眠りから目を覚ましたこれらの土器から見えてくるのは、「海上の道」のことである。それはかつて民俗学の柳田国男が提示した、潮の流れに乗り南方から島伝いに列島を渡ってきた海民がいたとする説にも繋がる話で、屋久島に見つかっている土器には奄美地方に見られるような南島系土器もあれば、九州に発生したと考えられている土器の紋様も含まれているのだ。ならば僕らが屋久島の歴史や文化に触れる時、島を中心に地図を北にも南にも大きく広げ眺めてみた方が見えてくることがあるだろう。