呪いを解く話
毎年12月は、習慣になっていることが止まる。止まる理由はいろいろあるんだけど、まあ、そのうちの一つにはアレとかが含まれる。
で、習慣になっていることが止まることが悪いことなのかというと、必ずしもそうとも言えなくて、これを自分は「呪いを解く」と呼んでいる。「呪い」はノロイと読んでもいいしマジナイと読んでもいい。
今年は読書が止まった。リブログも止まった。ランニングは止まらなかった。音楽も止まらなかった。
2018年は読書とリブログが止まった
ここ数年は、ケ(気)の11ヶ月(1~11月)と、ケガレ(気枯れ)の1ヶ月(12月)みたいな感じになっている。12月まるまる一ヶ月で中身が空っぽになって、そしてハレの日(新しい年)を迎える。そんな感じ。
ベスト・オブ・ザ・イヤーの記事を書いていて、
ランニングが止まった。ちょっと腰痛が出ていたのはあるけどもごく簡単なルーチンも止まった。持っている全ての意志力をベスト・オブ・ザ・イヤーに捧げてしまった。なんということでしょう。
2019年は
音楽は止まらなかった
読書はそもそも動いてなかった。これはひと足お先に、再開した
リブログはそもそも動いてなかった。いまも動いていない
ランニングは止まった
scrapbox も止まった
考えることが止まった。物事の重要さ、その順列が変わったというべきか
順列が変わったというよりは、白紙にもどったというべきか
「願い」は「呪い」だという気づき
生々しいけど清々しい気持ちになる
そのセルフイメージはどこから来たのか、実はこれは自分が生み出したものではなく、自分の両親・祖父母の願いだったという気づきがあった。
両親祖父母が「僕が幸せに生きられるように、こう在ってほしい」と願った「願い」が、いつのまにか私のセルフイメージとして自分を苦しめていたのだった。 なんとくだらない。自分は自分の人生を生きてなかったのだ。気づいた瞬間、自分の他人に対しての見方が変わった。 そのセルフイメージを実現するために自分は他人を使っていた。そこには尊重は無かった。しかも自分ではない他人の願いから産み出されたセルフイメージを守るために、だ。
2020は「自分を取り戻す」。他人の人生を生きる必要はない。自分の人生を自分でグリップするんだ。
自分自身のビジョンとは何なのか、ということをずっと考えている。 ワクワクすること、楽しいと思えること、得意なこと、それがビジョンになっていく、そう信じて2020も生きていく。
祝祭には呪いを解く役割があると思う
一度忘れてしまって、もう一度やり直すというのはイイ
何回でもやり直せると思うと、何回でもフレッシュになれる