古典的な「ただ乗り」の戦略だ
古典的な「ただ乗り」の戦略だ
たとえば、こういう人たちはワクチンは完璧に安全だと主張する。でもこれは正しくない。あるワクチンは本当はごく小さな(でも場合によっては重大な)副作用の危険性がある。もちろんそのような危険はごく僅かで、ワクチン接種が防ぐ病気の危険の方がずっと大きい。しかし、ここで集団免疫が関係してくる。もし自分以外の全員がワクチンを自分の子供に接種していたら、自分の子供に伝染病がうつる可能性はほとんどない。だったらなんで副作用の危険をおかす必要がある?予防接種の副作用は他の親たちの子どもたちに負わせよう。そうすれば、自分の子供は集団免疫の利益を受けることができるし、予防接種の副作用は避けることができる。古典的な「ただ乗り」の戦略だ。
これを表現するのに一番いい方法は、トーマス・シェリングが「ミクロ動機とマクロ行動」で使った(そして、私に言わせれば、これに関して考える今でももっともいいやり方である)図を使うことだ。Y軸に利益を、X軸にワクチンを接種した人の割合をとり、それぞれの戦略の利益を2つの線で書こう。赤はワクチン接種を選んだときの利益、緑はワクチン接種をしなかったときの利益とする。 https://gyazo.com/64de4ddcc400dfa04a71d9dbbd936765
言うべきことは「危険の有無にかかわらず自分の子供に予防接種を受けさせることは義務です。私達は公益ために少しの犠牲を払うよう求められています。それに、自分の子供にワクチン接種を受けさせなかったことで、誰か他の人の子供が病気になって死んだらどう思いますか。」
別の言い方をすると、議論は道義的なものであるべきで、(病気に対する)慎重さに関するものであってはいけない
役人は絶対に私達を病院に行かせてまたワクチン接種を受けさせようとした。そこで、私達は一番楽な方法を選んで「良心による拒否」を提出した。私は素晴らしい計画を立てた。私はこんな文書を作成しようとしたのだ。
私達は「科学」というめずらしい宗教を信仰していて、私の信仰体系によれば、ワクチン接種を月曜日にすることは、その週の後半、例えば木曜日にすることと全く変わることがない。私達は「医者」と呼ばれる宗教の専門家に相談したところ、私達の神聖な書物の解釈は正しいとの確認を得られた、
というような。残念なことに、書式はどんな説明や正当化も求めていなかった。単に何らかの理由で自分の子供にワクチンを受けさせたくないと記載すれば、役所はそれをそのまま信じてくれたのである。