十牛図
十牛圖
「あれか?『十牛圖』だよ」
「あれはね、禅門で云う『禪宗四部録』のひとつだ」「『信心銘』『證道歌』『坐禪儀』と、そして『十牛圖』で四部だ」「これは十枚組の漫画のようなもんだ」
「一枚目でこの男はいきなり牛を失っていることに気づく訳だ。この世界ではそこから始まる。その前はない。この男は牛を失っていることに気づいて探しに行こうとする。これが『尋牛』だ」
( 『鉄鼠の檻』文庫版 第6章 pp.711-712 ) 尋牛
https://gyazo.com/1f397f1d328f6a79c33516ab2af8352f
「尋」の字は“尋ねる"という動詞であり、まず「尋ねる」と動詞を先に言っておいて、「何をか —— 牛をだ」というふうに名詞を後で補足するのが、中国語の語法である。 「牛を尋ねる」 というのが第一の段階である。
第一『尋牛』
「一枚目。この男は牛を失っていることに気づいて探しに行こうとする。これが『尋牛』だ」
第二『見跡』
「次。二枚目。男は物的証拠を発見する。牛の足跡だ。これは貴重な手がかりだね。『見跡』」
第三『見牛』
「三枚目。『見牛』。牛を見つけたところだ」
「あれは見つけたところですか。それで頭しか書かれていないんだ。変だと思ったですよ」
第四『得牛』
「そう。牛の部分を目撃しただけだ。全部を見ちゃいないし手にもしていない。そこで手綱をつけてとっ捕まえようとする訳だ。それが四枚目。『得牛』」
第五『牧牛』
「そして遂に牛を捕まえることに成功する。五枚目は牛を連れて行く。『牧牛』」
第六『騎牛帰家』
「次がこれだ。六枚目の『騎牛帰家』。牛をすっかり飼いならして、背中に乗っかって笛まで吹いている。家に帰るんだ」
「さて君の部屋の牛(『牧牛』)は黒牛かい?白牛かい?」
「黒かったですが。黒牛」
「この男が載っている牛は —— 」
「ああ?白い!塗り忘れたんですか?」
「そんなことはない」
「なら別の牛 —— じゃないんですね?」
「牛は捕まえて飼いならした途端に黒から白になるのだ。ま、それは置いておくとして」
第七『忘牛存人』
「さてこの次の絵はどう云う絵だと思う?」
「さあ、まあ、逃げて捕まえて家に帰って禧(めでた)し禧しでしょうから —— 家で仲良く牛と暮らす絵でしょ」
それが違うんだよ —— と云った。
「普通はそう考えるね。しかし違うんだよ。家に帰って寛いでいるのは男ひとりだけだ。のみならず男は牛のことなんざすっかり忘れているんだ。七番目。『忘牛存人』だ」
「善くわかりませんなあ。苦労して捜して見つけて、やっと連れ帰ったものを忘れちゃうんですか?無意味だなあ。また逃げたのですかね」
「否、なくなったのだね。以降はもう牛は出て来ない」
第八『人牛倶忘』
「その次、絵には何も描かれていない筈だ。これが八番目に当たる『人牛倶忘』と云う」
「はあ?何も描いていないって白紙?手抜きですか」
そうじゃないよ、と笑った。
「これが四コマの漫画なら、それが三コマ目だね」
「起承転結の転と云うところですか?するとその後にオチが待っている訳で?」
「オチがあるとしても、肝心のそのオチの部分だけがここにはない訳だ」
第九『返本還源』、第十『入鄽垂手』
「その後は、水辺に花が咲いている『返本還源』が九番目で、布袋尊の如き姿に様子がすっかり変わってしまった男 —— あるいは別人 —— が袋を担いでただ立っている『入鄽垂手』が最後、十番目だね。これで終わりだ」
( 『鉄鼠の檻』文庫版 第6章 pp.711-715 )
悟りと牛
「ははあ。筋は解りましたが、意味は解りません。敦子さん解ります?」
「私は『十牛圖』と云うのは悟りに到るまでの経緯を描いたものだって聞いていましたから —— 」 「悟り?すると —— はあ、解りましたよ。この牛ってのが悟りなんでしょう。悟りを求めて悟りを見つけ、悟りを得ると云う —— 」 「一般的にはそう云われているね。そしてそれは正しいと云えば正しい。しかし悟りというのは得るものじゃない。だから悟りを捜しに行く絵と云うのはそもそも変だ。悟りは常にどんな状態でも自分の中に備わっている。逃げも隠れもしない」 「じゃあ違うの?」
「違わないよ。但し、悟りが逃げていったから追いかけよう、ああ悟りを見つけた、悟りを得た —— そう云う風に見てしまうと、大いなる勘違い、と云うことになる」 「それにもしこれがそう云う話だったとしたら、こんな描き方はしない。僕が漫画家だったら、最初のコマは男と暮らしている絵を描くだろうね。そして牛が逃げる絵も描く。それにこれが悟りを得るまでの話だったなら、六枚目の『騎牛帰家』がお仕舞いのコマになるだろう。後の四枚は要らない。」 「この絵の男は、何もないところから始まる。そして何もない状態で終わる」
「『十牛圖』の場合、悟りは矢張り牛に見立てられている。悟りと云うより本来の自己というか —— 取り敢えず悟りにしておこうか。悟りと云うのは外側にあるもんではない。その辺に落ちている訳じゃない。誰しも生まれながらにして持っている。いや持っていると云う云い方も適当ではないな —— 『存在していること』が即ち悟りなんだね。ありと汎百ものには仏性がある、と云うのが基本だ」 「だから牛=(イクォール)悟りだとすると、それを外部に尋ね歩くと云うのはおかしな話だ。だからこれはあくまで見立てだと捉えるしかない。見立てられないと勘違いをする」 (『鉄鼠の檻』文庫版 第6章 pp.715-717 )
牛と男
「牛と云うのが本来の自己だとすると、牛と男は同一人物と云うことになってしまうだろ?男は本来自分が牛であることを知らず、牛 —— 本当の自分 —— がどこか他にいるものだと思って捜す。そして見つける。見ただけではどうにもならない。牛を自分のものにしようとして四苦八苦 —— 修行 —— する。そして飼い馴らす。本来の自分を手に入れる。そして元の場所に戻ってきた時には —— 牛はいなくなっていなければならない」
「あ、一人二役か」
「そう、牛と男は元元同一人物なんだ。二つに分かれて同時に存在していると云う形は本来あり得ないし、況や同一の場に両方が存在することは絶対にあり得ないのだ」
「それで牛はいなくなった?いなくなったと云うよりはいなかった?」
「そう。」
(『鉄鼠の檻』文庫版 第6章 p.717 )
忘牛存人
https://gyazo.com/d5753216d425ca1757feabc0978cbc5e
牛に騎ってもう家に帰り着くことができた
牛の姿は見えず人もまた閑かだ
朝日が高く昇ってもまだ夢をみて眠りこけている
鞭も手綱も空しく藁屋に置きっ放しである
修行は終わった。
牛を牧い馴らすための鞭も手綱も藁屋に置きっ放しで、家に帰った人だけがのんびり朝日が高く昇っても眠りこけている。
もう何もしなくてもよいし、また何をしてもよい。
無、空、円相
「こうして男はひとりになった。と、云うか最初からひとりなんだがね。しかし牛 —— 本来の自分がいなくなったと云うことは、自分自身がいなくなったと云うことにも等しい訳だよ。そこに到っては凡てがなくなる。『無』だ。それが八番目の『人牛倶忘』だね」
「それは —— 仏教で善く云う、凡ては無である —— と云うか何と云うか、その、所謂『絶対無』を意味しているの?」
「それはそうだ。勿論解釈は幾らでもできる。これは空を空ずる —— 絶対空の『円相』である。それはそうなのだ」
「解らんです」
「うん。じゃあ少し解り易く云おうか」
「病の者は健康を意識する。しかし本当に健康な者は健康を意識することはないだろ。健康と云う概念が失われている状態が真の健康なんだね」
「自己に対しても世界に対してもそれは同じで、自分とは何か世界とは何かと問うているうちは本当ではない。自分とか世界とか云うものがすっかりなくなって、初めて自分があり世界があると —— 」
「少し解った気がします」
「そんなところでいいんだよ」
(『鉄鼠の檻』文庫版 第6章 p.718 )
人牛倶忘
https://gyazo.com/c1cb6df6574ff45f936b74a6ac7b5989
鞭も手綱も人も牛もすべて空に帰した
碧空はほがらかに大きく音信も通じにくい
真っ赤な熔鉱炉の焰の中には雪の容れようはない
この境地に到ってはじめて祖師の宗旨に合う
悟後の禅
本来ここで終わりでもいい。しかし『十牛圖』にはあと二枚続きがある」
「さっき云っていたオチの二枚ですな?」
「そう正にオチなんだ。この二枚が『十牛圖』の一番大事なところなんだな」
「禅門の古典には『十牛圖』に先行して善く似たテキストが存在する。その名も『牧牛圖』と云う。これは黒い牛を飼い馴らして段段に白くする、また白く飼い馴らした牛を黒くすると云う内容の、八枚から十二枚続きのものだと云われる。そして『牧牛圖』はこの円相、つまり空で終わっているんだね」
「ははあ、この急に牛の色が変わるのはそれを手本にしたからですな?しかし何で牛が白くなったり黒くなったりするんです?」
「勿論それも見立てだよ。説明するには多くの仏典禅籍を引かなきゃいけないから止そう」
「この『十牛圖』の作者は、その『牧牛圖』を踏まえて、それを圧縮し、二枚つけ加えて全く新しいものを作っちまった。そこが凄い」
「どう凄いんで」
「だからさ。悟ることが最終目的ではないと云う主張だよ。悟りとか最終解脱とか云うものは目的 —— つまり修行の終着点ではあり得ないのだ」 「悟りは常にここにあり、悟りと修行は不可分で、つまり生涯悟り続け、修行し続けることこそが本来の姿であると云う —— それが禅の真髄だ」 「生きることが即ち修行であり、生きていることが悟りなんだよ。ただ足ることを知る、それだけでいいんだ」 「つまり、禅の修行者と云うのは、至上の目的があって、それを目指して日日精進努力を重ね、大悟に向けて邁進している —— 訳ではないのね?」
「その通りだね。悟ることは必要だ。己に本来仏性が備わっていることを知らずに生きるのでは、仏性を持っていないのと変わらない。だから仏性に目を向ける、仏性を己のものにする —— つまり『十牛圖』の前半部分は矢張り大事なんだ」 「だが結果大悟しても、決してそれで終わりではない。それは本来の姿に立ち戻っただけであり、その後も生き続ける —— 修行し続けなければ嘘だ、間違いだ、と『十牛圖』は教えている」
「悟後の修行が大事なんだよ」
偏屈な古書肆(古本屋)は老禅師と同じような台詞で結んだ。
(『鉄鼠の檻』文庫版 第6章 pp.719-721 )