中東欧音楽の回路
中東欧音楽の回路
だが本書を読むと、これらの音楽の周囲にいろいろなものが吸い寄せられるように集まってきて、ひとつながりの世界をつくりはじめることに驚かされる。ストラヴィンスキーのバレエやレハールのオペレッタ、エネスクのヴァイオリン曲やリゲティの現代曲が出てくるあたりはまだ序の口で、シャガールの絵やクンデラの小説までが論の射程に入ってくる。
それらが結び合わせられる核にあるのは、民族や国家をこえた普遍性を志向するとされてきた「芸術音楽」にも、それぞれの民族固有の音楽とされてきた「民族音楽」にも括られない種類の音楽があり、それらが様々な民族の音楽文化をつなぎ合わせるもう一つの紐帯になっていたのではないかという伊東氏の基本的な問題意識である。中東欧の場合、クレズマー音楽やロマの音楽などは、決して特定の民族を代表するという意味での「民族音楽」であったわけではない。これらの音楽にたずさわった楽師たちは、民族的な意味でも階層的な意味でもマイノリティであり、時に蔑視されたりする一方で、彼らの生業とした音楽は、それぞれの民族の境界をこえて、それらを媒介し、つなぎ合わせる役割を果たしていた。 しかも20世紀に入ってからは、彼らは移民として新大陸に渡り、映画やレコードなどの新しいメディアの担い手となったり、ロシアから満州方面に流れ、中国や日本での西洋音楽の普及に貢献したりといった形で、西洋音楽の輪を非西洋世界へと広げ、それらの諸文化を結び合わせてゆく役割を果たすことにもなったというのである。
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なつかしくエキゾチックな音楽には何が秘められているか.東欧ユダヤ民族のクレズマー,ロマのヴァイオリンやブラスバンド,ブルガリアのポップス.さらにはコダーイやバルトーク,リゲティの響き──「西欧」外のヨーロッパ音楽の歴史文化的背景を,シャガールやクンデラの作品をも糸口に読み拓く試み.
シャガールについて,自分が何らかの文章を書くようになるとは思ってもいなかった.好きではなかったからだ.父親がデザイン関係の仕事をしていて,機能主義,構成主義,新即物主義的なものに囲まれて育ったので,「愛と幻想の画家」シャガールなんて論外だった.シャガールの絵のことを「マーマレード」と形容した人がいて,つまりは明るくて甘ったるいというような意味なのだろうが,我が意を得たり,と思ったものだ.が,ロマの音楽を調べるうちに,東欧・ロシアのユダヤ人たちの大衆音楽クレズマーを聴くようになり,シャガールが描いたものがそういう世界のものだったことを知って,彼の絵は俄然違うものとして見えるようになった.そして,この音楽について調べているうちに,これは実はどこか遠い世界の,見知らぬ人々の文化というわけではなくて,我々が今聴いている音楽文化の根幹を成すものなのではないか,と考えるようになった.中東欧の芸能は,新大陸西海岸発信の大衆音楽となり,またユーラシア大陸を東周りに伝わって極東にも届き,かくして我々の音楽のデファクト・スタンダードになったのではないか---そんな視点から,クンデラを読み,ストラヴィンスキーを聴き直し,ブルガリアのポップフォークを追い,バルトークの旅を辿る.
音楽を通じて,絵の見え方が変わり,映画を観る目も変わり,それがまた音楽の聞こえ方を変える.そして自分の感受性の成り立ちも振り返らざるを得なくなる.ここ十年ほど,そんなことを続けてきた結果をまとめたのが,この本である.
目次
序
第1章 ニシンとヴァイオリンと緑のユダヤ人――シャガールのヴァイオリン
コラム 映画「耳に残るは君の歌声」の視角
第2章 異教的習俗のモンタージュ――ストラヴィンスキーとスコモローヒ
コラム ポクロフスキー・アンサンブルの《結婚》
第3章 民俗音楽の喜劇的浄化――コダーイとクンデラ
コラム 書かれざるを得ないことと書き得ぬこと――アゴタ・クリストフ『ふたりの証拠』に
第4章 民族間の「通貨」としての音楽――モルドヴァのブラス・バンド
コラム パリのロシア風ナイト・クラブ――ケッセル『朝のない夜』再読
第5章 チャルガに夢中――ブルガリアン・ポップ・フォークの地政学
コラム ズルナと武満――篠田版『心中天の網島』に
第6章 《ジプシーの恋》の夢と諦め――レハールのオペレッタ
コラム 粉挽き場というトポス――フォークロアの隠れた水脈
第7章 妖しく高貴なヴァイオリン――エネスクとラウタール
コラム L氏の横顔――ヴェーグ,ヴェレシュ,コパチンスカヤ
第8章 リゲティが見入る地図――長いイントロダクションとインタビュー
コラム フィガロはなぜ理髪師なのか?
終章 豚飼いの角笛の残響――バルトークの旅を辿る
初出一覧
あとがき
図版出典一覧
人名索引
付録CD解説