ルート上のボルトは少なければ少ないほどそのクライミングはより自由になる
ルート上のボルトは少なければ少ないほどそのクライミングはより自由になる
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「ミニマムボルト」という考え方がある。簡単に言うと「打つボルトは控えめに」ということだが、なぜ安全のために使用するボルトをあえて制限するのか。せっかく打つならたくさん打って安全に、確実に登れば良いじゃないか、と思われるだろう。しかし、根本的に、ルート上のボルトは少なければ少ないほど、そのクライミングはより自由になる、という性質がロッククライミングにはある。
ルート上のボルトは少なければ少ないほど、そのクライミングはより自由になる
今回、私がマラ岩西面で開拓したルートはボルトルートだが、ボルトがクライミングにおいて何を意味するのか、それがクライミングの倫理や文化にどのような影響を及ぼすのか、といったように、私はボルトの取り扱いについては特にシビアに考え続けてきた。何もない真新しい壁を見上げた時に生じる感情、真っ白なキャンバスに自身のラインを描くという創造は限りなく自由な行為だ。それはある種、初登者の特権なのかもしれないが、そのキャンバスにボルトを打ち込みトレースを刻むということは、同時に次世代のクライマーたちからその「自由な体験」を初登者自らが奪う行為ということでもある。私にとって、ボルトをライン上に打ち込むということは、自らが“自由の略奪者”となることと同義だ。“略奪者”というと過激に聞こえるかもしれないが、もちろんボルトの存在そのものを否定しているわけではない。ボルトの使用によって登攀可能となった岩壁は無数にあるし、現に私もクライマーとしてボルトの恩恵を多く受けてきた者の一人だ。しかし、クライミングにおけるボルトというものは、その扱い方次第ではクライミングが持つ「自由」を奪い、クライミングの本質を揺るがす兵器となりえるのだ。
ボルトの使用によって登攀可能となった岩壁は無数にある
ボルトはクライミングが持つ「自由」を奪いクライミングの本質を揺るがす兵器となりえる
マラ岩西面の開拓を進め登攀可能なラインを探るうちに、見出したラインではその上部で2通りのライン取りができることを知った(画像のAラインとBライン)。結果として、その2ライン上のどちらにもボルトを打たないという選択をしたわけだが、もはやその理由を説明する必要はないだろう。
“ルート上に2つのラインの選択肢を残すこと”、それが私なりの「ミニマムボルト」という思想の表現となった。
ラインの選択肢を残すこと
思想の表現