ボディサーフィン
ボディサーフィン
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だれも金を稼いでいないのなら、どうだっていいじゃないか?
ボディサーフィンの世界は、金銭とは無縁だ。メディアにも縁がない。そこそこ素質のある子どものコーチを死ぬまでやめようとしない小遣い稼ぎに必死なオーストラリアの高齢者もいない。夢に破れることもなければ、キャリアを失うこともない。挫折した親の夢を肩代わりさせられる子どももいない。協賛企業も、ちやほやされるプロもいない。
華やかさもなければ、効果的な編集のために空間を演出するような機材もない。そもそも、これをドキュメンタリーにして放送しようとする撮影班もいない。競技者はマヌケな小さい帽子をかぶり、そろってプカプカ浮いている。そして、時おり口元を上げ、まず顔を起こし、無我の境地へ腹から飛び込む。ボディサーファーたちは、仲間の特に巧みなライドに声援を送るが、観光客のその家族には、何がどうなっているのか全く理解ができない。すべてのアクションは海面下で起きている。背中をそらせ、手を引き込み、足首の力を抜く。腹部が滑走面になり、胸郭はレールと化して作用する。すべてはつかの間の興奮と直感的な反応、そしてアドレナリンのなせる無謀な所業だ。
ボディサーフィンには、どれほど人気が高まったとしても決して失われることのない本質的な純粋さが内在している。身体が海から離れずに海と一体になれることができる唯一の波乗りだからだ。有害な化学物質でできた板は必要ない。商標を表示する場所もないし、アクセサリーで儲ける機会もほとんどない。それは本質的にマゾヒスティックであり、風が強くクローズアウトした浅い波を見て「さあ、お遊びの時間だ」と思うような、ひねくれた心の持ち主として永遠に祝福されるかあるいは罵倒されるか、どちらかだ。