ヘンリー・ウッド
ヘンリー・ウッド
1893年ロンドン、ランガム・プレイスに開場した音楽ホール、クイーンズ・ホールのマネージャー、ロバート・ニューマンは、廉価なチケット、開場中の飲食を認めるなど気取らない雰囲気の中でより多くの人々に音楽に親しんでもらう「プロムナード・コンサート」を企画した。今日BBCプロムスとして有名なコンサートの創始である(初日は1895年8月10日)。そしてニューマンが26歳のヘンリー・ウッドをこのコンサート・シリーズの指揮者に指名したことは、ウッドの将来を決定付けることになる。
ウッドは英国の聴衆に多くの世界初演曲あるいは英国初演曲を提供した。エルガーなどイギリス人作曲家の数多くの世界初演曲は無論のこと、彼がイギリス初演のタクトを振った同時代大陸ヨーロッパ人の新作には、ドビュッシー、リヒャルト・シュトラウス、シベリウスの多くの作品、マーラーの多くの交響曲などがある。
ウッドは一方で、ロマン派音楽隆盛以降の19世紀末にはほとんど忘れ去られた感のあったバッハやヘンデルの楽曲を、(今日の我々から考えるとかなり大胆に)近代的なオーケストラ向けに編曲し、聴衆がそのような曲を「再発見」する一助となっている。
日曜日を除く毎日、週6日公演を行うというプロムスでは週3日しかリハーサル時間が組めず、これは多くの新曲を紹介したいというウッドにとっては困難な状況であったが、彼は事前にパートごとに譜面の詳細な研究を行い、さらに楽団員にリハーサル開始・終了時刻を厳守させることでこの局面を切り抜けている
なお1913年にはウッドは英国のオーケストラに初めて女性を正規の楽団員として迎え入れるのにも寄与している
第二次世界大戦の勃発にともない、BBCは1940年および41年のプロムスの運営から手を引いたが、ウッドは民間のスポンサーシップを受けプロムスを継続、1941年5月10日のドイツによる空襲でクイーンズ・ホールが破壊された後はロイヤル・アルバート・ホールに会場を移して続行した。結局BBCも1942年からはプロムスの運営を再開、今日に至っている。
この1942年にあっては、ウッドは齢70を過ぎた身で灯火管制下の英国を頻繁に移動、ロンドン(BBC交響楽団およびロンドン交響楽団)、マンチェスター(ハレ管弦楽団)など各都市への客演を行うなど矍鑠としたものであった。しかし翌1943年には全般的な体力の衰えからプロムス全プログラムを欠場、翌44年、ウッドの75歳を祝う盛大なコンサートがエリザベス王妃の列席を仰いで挙行され、彼も数曲のタクトを振るなどもあったが、同年夏のプロムスがドイツV1飛行爆弾のロンドン攻撃などのため短縮され、かわりにベッドフォードの疎開所スタジオから行われた中継放送で数回の演奏を指揮した後、同年8月19日にハートフォードシャー州・ヒッチンでその生涯を閉じた。最後の指揮は7月28日のベートーヴェン交響曲第7番であった。