ドラキュラの家
ドラキュラの家
早稲田大学石山修武研究室
新建築住宅特集 1995年6月号 34P
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三一歳理容師♂+二六歳芸術家♂。施主であり住人となる、男性二人のカップル。これに脱住宅としての表現をあたえたのが、石山修武だ[図17]。
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17───石山修武《ドラキュラの家》1995
昨年、彼は「住宅論」の連載とともに《これは工事中ではない》家、《究極の家》、《花咲かハウス》などの刺激的な住宅を発表しているが、なかでもこの《ドラキュラの家─光の棺桶》(一九九五)は異色の作品である。木島安史の《孤風院[コフィン=棺桶]》(一九八六)も学校の講堂を自宅に改造した脱住宅だったが、《ドラキュラの家》がもつフレキシブルボードと石綿スレートの外観は、どう見ても生産する工場になっており、明らかにショートケーキ的な劇場に対抗する。そして、ないないづくし。リビングはない、トイレも風呂もドアなし、個室もないから、プライバシーもない(何という反ヴィクトリア的な)。当然、子供室も必要ないだろう。ただあるのは小さな台所と大きな空間。二人の男は「家族」の住宅という概念に根底から揺さぶりをかけたのである(建築以外の表現分野ではとっくにやられていたことだが)。ところで『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(一九九四)の映画でも、トム・クルーズ扮するレスタト+ルイというドラキュラになった二人の男が一七九一年以来、長い間、共同生活を営む。彼らは性関係をもたなかったようだが、もともとドラキュラの発生にそれはいらない。人間を噛み、自らの血を飲ませるという伝染によりドラキュラは増えるのだから、彼らは単性の増殖を行なう。ゆえに家族もいらない。しかし、ドラキュラ(人間 ←→コウモリ)を、ドゥルーズ/ガタリは群れとしての動物であり、分子状動物の生産と呼ぶのにもかかわらず、結局、レスタト+ルイは疑似家族を作ってしまう。かわいいお人形のような娘クローディア、二人の弟、母。ドラキュラでさえ、かくも脱家族は困難なのだろうか。そして彼らは日中、地下の棺桶に眠る。
《ドラキュラの家》が「光の棺桶」とも命名されたのは、その歪んだ棺型の住宅がほとんど窓を持たずに、一直線のトップライトのみが天井から光を降りそそぐからである。だが、何故ドラキュラなのか。ここには先だって一軒の家があったのだが、不吉な事件の後に解体され、地中に壊された家が眠っているという。そのいわくつきの家の原因となったのが、ドラキュラさながらに、昼は閉じこもり、夜は黒いマントでうろつく、ひとりものの怪老人である。そして当時の表札には「奪われたくない輩は近寄るべからず 奪われてもなくならないかた求む」の文。彼も家と一緒に埋められたかどうかは定かではないが、場所と家に付随した物語ゆえに、《ドラキュラの家》は不気味なものの力を帯びている。本来、家とは安心な場所のメタファーであったはずなのに。
5年前、「ドラキュラの家」(早稲田大学石山修武研究室、『新建築住宅特集』9506)を訪れると、倉庫のような佇まいの住宅が、本当にフォークリフトの出入りする倉庫になっていた。住宅だった時から設置されていた軽量シャッターがそのまま使われ、建築が生き続けていた。