カリフォルニア・クリッパーとティー・クリッパー
カリフォルニア・クリッパーとティー・クリッパー
ティークリッパー、南半球、貿易風みたいな関係
西から東へという航路だった
往復航路、行きは空荷、帰りはお茶
ロンドン→希望岬回り→インド洋→中国
カリフォルニア・クリッパー、帆船技術、三角航海(ニューヨーク、サンフランシスコ、広東または上海、南米ケープ岬回り航路)みたいな関係
東から西へという航路だった
三角航路、行きは労働者、帰りはお茶
のちにロンドンを加えた四角航海となった
ニューヨーク→ケープ岬回り→太平洋→カリフォルニア→中国→インド洋→喜望峯回り→ロンドン→ニューヨーク
アメリカの独立が茶に対する課税反対運動に端を発していることからも分かるように、当時の国際交易品の中で最も価値の高かった商品は中国の茶であり、イギリス、スペイン、オランダ、オーストリアなどの西欧諸国は茶の海運にしのぎを削っていました。そのような状況の中、1783年のパリ条約によって、正式にイギリスから独立したアメリカは、早速中国との通商をスタートしました。アメリカはそのころの航路として一般的だった喜望峰回りのルートではなく、南米を経由する航路を用いて、途中のカナダで集めた毛皮を中国の茶と交換するという新しい貿易を始めたのです。アメリカが中国に持ち込んだ毛皮は大変珍重され、帰路には大量の茶を持ち帰ることに成功しました。この結果、アメリカの海運業は活況を呈し、フランス革命による諸国の争いに乗じて、ヨーロッパへの輸出においても成功しました。 https://world-tea-dictionary.com/knowledge/ティークリッパー.html 行きは労働者(カリフォルニアへ)、毛皮(カナダ→中国)、お茶(中国→ニューヨーク)
ニューヨーク→ケープ岬回り→太平洋→カリフォルニア→カナダ→中国→→インド洋→喜望峯回り→(ロンドン)→ニューヨーク
すでに一八二〇―五〇年の間に、帆船の発達は英米競争を通じて著しいものがあった。まずナポレオン戦争の直後をうけた二〇年代の西インド(大西洋)貿易における新型米国帆船の勝利、三〇年代にはシナ海でこの米国帆船が英国東インド会社の船を追払ってしまった。米船の勝利はすべて速力の賜たまものだった。そして四〇年代、英国帆船がやっと陣容を立直したと見えるか見えぬに、四九―五〇年のカリフォルニア黄金狂時代――その、海のゴールド・ラッシュの中から、従前未聞の快速船が生れ出た。「カリフォルニアン・クリッパー」こそ、アルゴノーツの心願そのままに、speed, comfort, capacity おまけにいま一つ beauty を驚異的な程度に綜合した絶品だった。
四九年のニューヨーク・サンフランシスコ間(ケープホーン迂回)の帆走記録は百四十三日ないし二百六十七日だったが、天才技師ドナルド・マッケイの最初の作品スタッグハウンドは五一年二月の処女航海に百十日で走り、彼の最大傑作フライング・クラウド(木造一、七九三トン)は同じ年に実に八十九日二十一時間の驚異的記録を作った。
だがカリフォルニアン・クリッパーに関する最大の驚異は、それがニューヨーク・サンフランシスコ間だけでなく、いわゆる「三角航海」によって全世界を席巻せっけんしたからであった。マルクスがいったように太平洋をはじめて世界市場に編入し大西洋を単なる「内海」の地位に却しりぞけてしまう最初の芸当を、美事にやってのけたからだ。
「三角航海」とはニューヨーク、サンフランシスコ、広東(または上海)の三点を一航路に結ぶ世界周航路で、カリフォルニアン・クリッパーはこのコースをとったものである。すなわちニューヨークから、満載した貨物と旅客をサンフランシスコで下ろすと、空荷のまま一気に太平洋を乗切って、広東または上海で茶を積込み、インド洋および喜望峯経由で帰航する。
このコースはきわめて合理的だった。第一にカリフォルニア貿易は五〇年代を通してほとんど片道貿易だった。すなわち金の輸送は少数の船に限られており、人間は金掘に失敗した者もすべて定着して戻らない。これが砂金の代りに金色の麦を輸出するようになったのは五五年以降で、なおきわめて少量だった。第二に当時のシナ貿易も、いわゆるティー・クリッパーはほとんど空荷でシナに向うのが常だった。誠に一八五二年当時の英支貿易の数字について見ても、シナへの輸出総額は約三百万ポンドだが、シナからの輸入は茶だけでゆうに六千万ポンドに達している。
だからこの米国船の三角路スリー・コーンドと英船の往復路アウト・エンド・ホームと競争させたら、勝負の数は明らかだ。まず黄金狂患者が創り出した米船の画時代的なスピードが物をいう。つぎに三角路の方には途中でカリフォルニア貿易というおまけが付く、したがって運賃のうえでも物がいえる(3)。
はたして「三角」航路はすぐさまロンドンを一角加えた事実上の四角航路となった。米国クリッパーはシナ米国間の貿易だけでなくシナ英国間の貿易をも一時はほとんど独占した。
ティー・クリッパー
カリフォルニア・クリッパー
https://gyazo.com/5ceb7c73ff98df077e3dc781b36c6588
吠える40度(ほえる40ど)は、南緯40度から50度にかける海域の俗称。英語からロアリング・フォーティーズ(Roaring Forties)とも呼ばれる。このように呼ばれる理由は、吠える40度の海域では西寄りの卓越風が吹いているからである。この風を弱める陸地が少ないため、この風は南半球で特に強い。その中でもインド洋南部では特に強い。
吠える40度の風はクリッパールート(英語版)と呼ばれる航路(クリッパーの航行ルート)において重要な役割を果たしていた。この風は、オランダの船乗りヘンドリック・ブラウエルによって1610年に発見されたのがおそらく最初と思われる。この風を利用してインド洋を素早く東へ進みジャカルタ(オランダ東インド会社)へ向かうために利用された。
赤道付近で暖められて上昇した空気は、極地方から赤道付近へとやってきた冷たい空気に押し出されるようにして極地方へと向かう。これがハドレー循環と呼ばれる大気循環である。赤道付近から極地方へと向かう空気は緯度30度付近で下降し、そこからは地表近くを通りながら引き続き、極地方へと向かうが(フェレル循環)、緯度60度付近で極渦の影響を受けて再び上昇する。この緯度30〜60度付近における大気の循環と地球の自転が組み合わさることで、西から東へ向かう空気の流れ、つまり偏西風が生じている。
北半球とは違って南半球の緯度40度帯は、タスマニア島やニュージーランド、南アメリカ大陸南部を除けば、大きな面積が開けた大洋となっており、南米南部では非常に速い風「吠える40度」が生まれている。より南極大陸に近い領域では、さらに強い風が吹いており、狂う50度(南緯50度〜60度帯)、絶叫する60度(南緯60度以上)と呼ばれる。吠える40度・狂う50度・絶叫する60度の緯度は一定ではなく、南半球が夏期の際には南極へ近づき冬期には赤道に近づく。
https://gyazo.com/65df370dec10e825f8179a6f67807895
このあたりを掘っていた形跡