アメリカ哲学
アメリカ哲学
鶴見俊輔
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この本の目次
アメリカ哲学
プラグマティズム各論
プラグマティズム総論
プラグマティズムの周辺
プラグマティズムとの出会い
フランクリンの人と思想
プラグマティズムの発達概説
折衷主義の哲学としてのプラグマティズムの方法
北米体験再考
革命について
鶴見俊輔は戦後のいわゆる進歩的文化人に数えられ、加藤周一や小田実らとともに論壇に登場することが多かった。私はこういうカテゴリーの人物に共通の「上から目線」の傾向があまり好きでないので、鶴見の著作にも疎遠を続けてきたものだ。
鶴見俊輔
加藤周一
小田実
ところがこの書を読んでほんとうにびっくりした。若くして米国に渡り、ハーヴァード大学を卒業した鶴見は「アメリカに行ったら、アメリカのものを勉強したいと思った」ので、米国独自の思想(哲学)として「プラグマティズム」に取り組んだという。その在米留学期間の足かけ4年間に書き上げたのが本書だが、この哲学をつくりあげた主要人物の思想、人となりからプラグマティズムの流れ、構造、位置付け、日本との関係まで、驚くべき膨大な資料を読み込み、流暢で分かりやすい見事な日本語で描き切った知的力量には感嘆せざるをえなかった。 私は1980年ころにハーヴァード大学に学び、 この最高学府の知的エリートの議論に触れる機会をもったが、そのロジックの立て方が日本のそれとは違ってある種の簡明さと論理性、説得力をそなえているのに驚いたものだ。それは後に経験した欧州諸国とも違う。そのカギが、米国のプラグマティズムの伝統に根ざしているのだということを本書を読んで痛感した。これは私の解釈であって、異論もありえよう。とまれ、超大国アメリカと知的交流をせざるをえない今日、この戦前に書かれた書物を読むことは、彼の国を理解する助けになるだろうと私は確信する。 1937年(昭和12年)7月、父・祐輔の計らいで井口(いのくち)一郎とオーストラリアを旅行。同年末に父に伴われて米国へ渡り、
翌1938年(昭和13年)3月までワシントンの斎藤博の公邸に預けられる。米国滞在中に、父と面識のあったハーバード大学の歴史学者・アーサー・シュレシンジャー・シニア教授を介して、同大学大学院に在籍していた都留重人と面識を得る。都留は生涯の師となった。同年9月に単身渡米し、マサチューセッツ州コンコードのミドルセックス校(英語版)(予備校)に入学。
1941年(昭和16年)7月、日本軍の南部仏印進駐に対抗して在米日本資産が凍結され、日本からの送金が止まったため、夏休みにニューヨーク日本文化会館の日本図書館で本の運搬をして働く。先行きへの不安から、生活費を切り詰め、成績優秀だったため卒業を急いで4年制の大学を3年で卒業できる飛び級コースを選択。この頃、結核のため喀血。
1942年(昭和17年)3月下旬、大学の第3学年前期が終わったとき、FBIに逮捕され、東ボストン移民局の留置場を経て、同年5月に戦争捕虜としてメリーランド州ミード要塞内の収容所に送られる。抑留中に卒業論文を完成させ、第3学年後期は大学の授業に出席できず、留置場で受けた後期の試験は不合格だったが、それまで成績優秀だったため、卒業論文を参考資料とすることで教授会の投票により特例的に卒業が認められた
1942年(昭和17年)6月、日米交換船グリップスホルム号に乗船、経由地のロレンソマルケスで交換船・浅間丸に乗り換え、同年8月に日本に帰国