その人の「着ぐるみ」の中に入る。自分の「着ぐるみ」をだれかに着せる
その人の「着ぐるみ」の中に入る。自分の「着ぐるみ」をだれかに着せる
──つくっては読む、読んではつくる、という営みには、何を期待されているんでしょうか。
他人の短歌を読むと、その人の「着ぐるみ」の中に入った感じになるんです。おばあさんの短歌を読むと、おばあさんの着ぐるみの中に自分が入って、世界を見ている感じになるんですよ。選歌をやっていると、たとえば100歳を超えたおばあさんの短歌で、夫もとっくに死んで、子どもたちも全員死んで、もうわたししかいない、というものがときどき来る。このイメージを、われわれはまったくもてないですよね。特に、子どもたちもみんな死んでいる、というところは想像を超えている。でも、その先の思いは、おばあちゃんそれぞれ違うんです。すごく悲しんでいる人もいれば、これで安心して、あとは死ぬだけだ、というような人も結構いる。
──その感覚や世界観を、わからないなりに「着ぐるみ」で体感する、と。
そうすると逆にこっちの、自分の着ぐるみも着せてやろう、という気になってくる。みんながみんな、飲み会のときに自然に席を移動できるわけじゃないんだぞ、と。最初に座ったところから動けない人間の恐怖を知れ、みたいなね(笑)
ぼくはわりとそうですね。短歌よりはエッセイのほうがこの傾向は強いですが、みんなができることができない感覚を伝える。いわゆる自己啓発本の逆ですよね。こうすればあなたもできますよ、というような世界に本質的な疑念を抱いていて、こうすればあなたもできなくなりますよ、と教えてやろう、という感じです(笑)