おまえにはボクシングの基本のワンツーを教えるよ
おまえにはボクシングの基本のワンツーを教えるよ
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9章
「おまえにはボクシングの基本のワンツーを教えるよ」「ワンツー?」「左ジャブから右ストレートへのコンビネーションパンチだ。単純なコンビネーションだけど、きちんとマスターしたら、よほど喧嘩馴れしてる奴以外はよけられない技術だ。やってみるから、よく見てろよ」
左のこぶしが地面と水平になるようにねじられながらまえに伸びたかと思うと、瞬く間に元の位置に引き戻され、その反動を利用するかのように右のこぶしもねじられながらまえに伸び、またすぐに元の位置に引き戻された。見事なほどに素早くて無駄のない動きだった。
左足の爪先がほんのちょっとだけまえに踏み込まれたのとほとんど同時に左のパンチが放たれ、続きの右のパンチが伸びていくのを助けるように右足が地面を蹴りながら左足のほうに寄っていった。
「一見両手を交互にまえに出してるだけに見えるかもしれないけど、スピードとタイミングの取り方が難しいんだ。あと、上半身と下半身の連係もな。下半身で作ったパワーを上半身にうまく運んで、そのパワーを左手で育てて成長させたあとに右手に託して相手にぶつけてやるんだ。分かるか?」
13章
世界の速度が正常に戻り、そして、中川の左手がポケットから抜き出される瞬間、わたしは動いた。 何百回(何千回?)の反復で脳と肉体に染みついている動きが、わたしを裏切ることはなかった。
両手のこぶしを上げ、一メートルほどまえにいる中川に向かって思い切り左足を踏み込んでいる時、わたしの頭をよぎっていたのはただひとつのこと。 ──みんなの世界までは、あとこぶし二つ分。
左足の指で床を踏み締め、左のこぶしをまえへと伸ばした。わたしの突進に気づいた中川はとっさに反応してディフェンスを試みたけれど、わたしのスピードには追いつけなかった。わたしの左のこぶしは、顔のまえに上がってこようとする中川の両手よりも先に中川の顔を捉えた。こぶしはおでこにぶつかり、その反動で中川の顎が軽く上を向いた。わたしは左のこぶしを戻しながら中川の顎先に照準を定め、右足を勢いよく蹴って肩ごとぶつけるみたいな力いっぱいの右ストレートを撃った──。
なにかを貫いたような衝撃と、こぶしに感じた軽い痛み。その痛みに勝る快感。目のまえで崩れ落ちてゆく中川。そして、鮮やかな色に染まってゆく世界。すべては一瞬の出来事。でも、わたしが自ら手を伸ばし、しっかりと摑み取ったもの。それは、誰にも、永遠に奪われはしない。絶対に。
わたしが右のこぶしを引き戻し終えるのとほとんど同時に、中川がわたしのまえにひざまずいた。上半身が前後左右に小さく揺れている。