「踊るように話すこと」と「書くように話すこと」
「踊るように話すこと」と「書くように話すこと」
口頭表現と文字表現の違い
ふたりの登山家の対談企画で、登山家Aは弁舌爽やかでよくしゃべる。それに対して登山家Bは言葉数が少なく、話したとしても、もごもごとしていてよくわからない。「これはAの圧勝になってしまうな……」。対談企画は、ふたりの発言の量と内容が均衡するのが理想である。ひとりの発言ばかりに偏った記事はいい記事とはいえないが、そんな記事にならざるを得ないことを私は覚悟した。
ところが、文字起こしをして対談の内容を精読して驚いた。あんなにキレのよかったAの発言は、文字で見ると思いのほか内容が薄く、逆に、まったく心に残らなかったBが意外なほどに深いことを語っていたことに気づいたのである。
Aは発言量は多いものの、よく聞くと同じ内容を繰り返していたり、テーマから外れたりすることも多く、そういう部分はある程度カットすることになる。逆にBの発言は、"えー" とか "うーん" などをカットして語尾を整えれば、ほぼそのまま使えた。しかも内容が濃い。結果的に、量的にも内容的にも、両者かなりバランスのとれたいい対談に仕上がった。
このエピソードから学んだことは、口頭表現と文字表現はまったく別物であるということ。
口頭で人に何かを伝えるとき、伝わるものの総量を100とすると、言葉だけで伝わるものは10もないといわれる。残り90は、声の調子や速度、大きさであり、または身振り手振りであり、表情や視線、服装や髪型を含めた外見などであったりする。話す内容よりも、話し方や見た目のほうがはるかに重要であり、人の心に残る9割はそちらであるというのだ。
一方、文章では、その90がほぼすべてカットされ、10しかなかった言葉のみに、受け手の全注目が集まることになる。となると、受ける印象がガラッと(ときには180度)変わるのも当然ではないだろうか。
これを逆手にとってて
自分はコミュニケーションが苦手で、誰かと会うのがすごい億劫なんだけど
誰かと会って話をしないといけないときには、こちらからはほとんど意味のある話はしないで、「面白いですね」とか「へー」とか「それは、」とか「なるほど」とかそういう言葉と、相づちとか手振りとかそういうジェスチャーだけで、やり過ごしている
で、一定の時間だけ経過したら機嫌よくお引取りいただいている
上の記事のように、あとからまとめてみれば、自分のターンは、空行だらけだろう
社会通念が示唆するように、良好なコミュニケーションは冷静で、論理的で、合理的です。感情は邪魔をするだけだと言われています。しかし、これが逆だとどうなるでしょうか?それらの感情的な倍音が私たちがお互いに送信している主なメッセージであり、その論理的な言語がすべて飾りにすぎないとしたらどうでしょうか? Expressly Human