「新しさ」の日本思想史
「新しさ」の日本思想史
西田知己
「新しい」が現在のような「進歩的だ」「新鮮である」という意味になったのは近世になってからであり、古代や中世では単に「現在」を示すものだった。「新しさ」が江戸時代に評価を高め、いかにして幕末維新期に大衆をリードするキャッチフレーズになったのか。「本」に立ち返ろうという復古思想とのせめぎ合いの中、明治以降の高度な外来の文化を受け入れる下地となる学術や思想がどう育ってきたかを、「新」や「本」の字義の変化をたどって検証。この国の進歩への志向の系譜を探る。
目次
第1章 越えられない本家―古代・中世の「新」(最初を尊んだ時代、和歌と能楽 ほか)
第2章 継承発展の道筋―近世前期の「新」(ベストセラーの新編元禄、歌舞伎 ほか)
第3章 文芸と学術の興隆―近世後期の「新」(江戸歌舞伎のリアル、東西の医学思想 ほか)
第4章 変革期を彩る造語―近代の「新」(維新と文明開化、新聞の時代 ほか)
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こんなふうに適当に手当たり次第に買うと、だいたい5冊中1冊くらいが当たりなので、打率はだいたいニ割くらい。三割三分三厘を目指したい
先週末、体調悪かったけど、本屋で新書を何冊か買った。そのうちの1冊が、西田知己『「新しさ」の日本思想史』。日本で古代から現代にかけてどんなふうに「新しいことはいいことだ」みたいな進歩思想が受け入れられてきたかという話で、自分はポップ探究の一つとして読んでいる。
なんとなく、進歩思想って欧米から渡ってきた感じがするけど、そうではなくって日本の中で成熟してきた流れが載っている。
その流れは、時代によって変わる言葉の意味の違いから追っている。「新」とか「本」とか。
「新」にはかつて「今」という意味しかなかった。未来は含まれていなかった、とか。
そういう流れで俄然、古語辞典とか日葡辞書が欲しくなっている。日葡辞書は岩波文庫から『日本語小文典』という名前で出ている。廃番だけど。
そんなに厚くない新書なんだけど、全然進まなくて、やっと読了した。
江戸時代後期、蘭学(解体新書とか)の発展が、今に繋がる「新しさ」の意味を変えていく原動力になるんだけど、この蘭学の発展が未来志向的? 啓蒙思想的? だとすると、一方で儒学(論語とか)をその理念に基づいて理解しようとする動きが起こっていて、これは儒学が後世に伝えられる間にその時代やその地域(中国?)の余計なものを纏っていったその一枚一枚を剥ぎ取っていくようなことで、そういう意味では復古主義的に見えるんだけど、実はその対象の方向が正反対なだけで、その事象に対する姿勢は全く同じものだった、という話があった。
そういえば、同じようなことはルネサンスにも見られたし、20世紀のクラシカル・ミュージックにも見られたのだ。オオ、と思った。なにかを発見したような気持ちになった。20世紀のクラシカル・ミュージックでは、かたや、無調というまだ誰も聴いたこともないようなノイズのような音楽に向かった矢印(ジョン・ケージとかそういう人たち)と、こなた、作曲された当時の楽器や演奏方法を用いて音楽を理解しようとした矢印(ニコラウス・アーノンクールとかそういう人たち)があった。
「新しさ」が動くときには未来と過去の両方に矢印が向かう。
自称、インターネットの墓掘りで、腐れリブロガーでもある自分にも、なにか存在する意味みたいものがあるような気持ちになった。ということでこの『「新しさ」の日本思想史』はキンドルも購入する方向で検討されています。