〈ほんもの〉というニュアンス
〈ほんもの〉というニュアンス
authenticity
最初に触れておかねばならないのは「〈ほんもの〉」であろう。〈ほんもの〉というのは authenticity の訳語であるが、これが少し難物である。硬く訳せば「真正性」であろうが、いずれにしてもニュアンスが分かりにくい。
authenticity
the quality of being real or true
real または true
1. done or made in the traditional or original way
2. a painting, document, book etc that is authentic has been proved to be by a particular person
14世紀中頃、autentik は「権威のある、正当に認可された」という意味で使用されていました(現在は使われていない意味です)。これは、古フランス語の autentique「信頼できる、公認の」(13世紀、現代フランス語の authentique)から派生し、直接中世ラテン語の authenticus に由来し、さらにギリシャ語の authentikos「元の、真正な、主要な」から派生しています。これは、authentes「自己の権限で行動する者」から派生し、autos「自己」(auto- を参照)+ hentes「行為者、存在」(PIE ルート *sene-(2)「成し遂げる、達成する」から派生)を組み合わせたものです。 「実際の、事実として受け入れられる」意味は、14世紀中頃から記録されています。
現代の使用では、伝統的に authentic は、対象物の内容が事実に対応し、架空ではないことを意味します(したがって「信頼できる、頼りになる」という意味)。一方、genuine は、評判のある著者が実際の著者であり、私たちがそれを著者の手から受け取ったままであることを意味します(したがって「純粋な、改ざんされていない」という意味)。ただし、これは常に保たれているわけではありません。「18世紀の弁護士たちが genuine と authentic の間に確立しようとした区別は、後者の語源とはよく合わず、現在は認められていません」(OED)。
といっても、雑誌の記事などで、最近では「オーセンティックな」などという言葉を見かけることも珍しくなくなっている。高級なレストランや服飾品を語る際に、「オーセンティックな輝き、雰囲気」といった表現が、(いささかの気取りを込めて)使われることもある。チャチな大量生産ではない、〈ほんもの〉であるという点が強調されており、コピーや偽物ではないことが重要とされる。とはいえ、これはテイラーの意図しているものとは少しずれているように思われる。
現代の「オーセンティックな」
チャチな大量生産ではない、〈ほんもの〉であるという点が強調されており、コピーや偽物ではないことが重要とされる
とはいえ、これはテイラーの意図しているものとは少しずれている
テイラーによると、〈ほんもの〉という倫理が産声をあげたのは十八世紀末である。それ以前の、デカルトやロックに代表される十七世紀の個人主義に対する批判として生まれたこの倫理は、ロマン主義時代の落とし子でもあるとテイラーはいう。十七世紀の個人主義がとかく自分の頭を使って物を考えることを強調し、社会との関係よりも自らの人格や意思を重視するものであったとすれば、〈ほんもの〉の倫理は個人の内面から発する道徳性や共同体的紐帯をより重視する。「自己との対話」や「他者とのふれあい」こそが大切であるとテイラーは強調する。 〈ほんもの〉という倫理が産声をあげたのは十八世紀末
十七世紀の個人主義に対する批判として生まれた
問題は、この〈ほんもの〉というニュアンスが、現代日本において十分に理解されるかどうかである。
テイラーの意図を捉えるためには、場合によっては、「自分らしさ」といった言葉を補ってみてもいいかもしれない。筆者が『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波新書)で論じたように、「自分らしさ」は現代のキーワードである。誰もが「僕らしさ」「私らしさ」にこだわり、また至るところで「あなたらしさ」を問われる。平等といっても、「みな同じ」では満足できない現代人は、「一人ひとり(少なくとも他人と同程度には)みな違う」ことを求めるのである。それゆえに、「自分らしさ」は誇らしいものであると同時に、(どこか)強迫的でもある。 〈ほんもの〉というニュアンス
「自分らしさ」といった言葉を補ってみてもいい
「自分らしさ」は誇らしいものであると同時に強迫的でもある
ある意味で、十八世紀末に誕生した〈ほんもの〉の倫理は、二十世紀後半になって、少なくとも多くの「先進国」とされる国々で大衆化し、当たり前のものになったのだろう(このあたりの文脈はテイラー自身によって、『世俗の時代』において詳細に分析される)。しかしながら、本書において〈ほんもの〉は、むしろそのオリジナルの可能性が積極的に強調されているように思われる。 〈ほんもの〉の倫理は、二十世紀後半になって「先進国」で大衆化した