2022年の春先に掛けられた呪いについて
2022年の春先に掛けられた呪いについて
東京ブロンクスの呪い
2023/02/24
金曜日なので1年前のプレイリストを鳴らして出勤してきた。キーを回して Bluetooth をつかむと "東京ブロンクス" が再生された。
今週末のプレイリスト。1曲目は1年前のプレイリストからタイニーパンクス、いとうせいこう "東京ブロンクス" 。なんとなく時節にあわせて。将来、この曲を聴くとこの週末というか2022年2月末にこの世界に起きた出来事を思い出すだろう、という呪いを掛けた。自分自身に。
戦争が始まった
2022/02/24
2022/2/24 戦争が始まった。
安全保障理事会の緊急会合のさなか、ロシアがウクライナに侵攻を開始したという劇的な展開だった。
ヘリコプターが空を飛ぶ。戦車が街を走る。倒れた兵士が雪に埋もれている。ミサイルが白く尾を引いてビルに突き刺さる。それがソーシャルネットワークを流れ続ける。これが戦争か。これがインターネットか。これが21世紀か。
2022/03/01~2022/03/08
今週末の良かったこと、補習版ということで、すでに次の週末を迎える寸前だけど、先週末の出来事についてです。
サボってしまった理由の一つはワクチン接種の副反応。もう一つの理由は貼る画像がなかった。
1曲目は1年前のプレイリストからファラオ・サンダース
まったく同じ1曲目を持って来たのは初めてだな
Love is everywhere | Pharoah Sanders
そもそも一番最初は、いとうせいこう「噂だけの世紀末」から選んだのだった
それが一年後、この戦争を思い起こす、呪いをかける音楽になるとは
だんだん呪いが深まっていく様子
2022/04
それから、
あとはあんまり記憶がない。週末は存在した。記すべきことなし。
貼るべき画像もなかったので tumblr から転載する。
https://gyazo.com/fb666959e8224e9e1f37064761b7c16f
「公園に突き刺さるミサイル、防空壕となった地下鉄で子供を抱く女性、ビニールをかぶり雨の国境を越える親子」
こうして文字に起こすと心に刺さるし、とても痛みを感じるけども、このときにはそんな思い入れもなく、なんとなくリブログして、なんとなく日記(今週末の良かったこと)に貼っていた
なんたって「記すべきことなし」って書いてあるもの
読書は完全に止まった。
https://gyazo.com/eed2f01911bd042bc0b6288e8817326c
そうしていよいよ読書が止まった
2022/12
https://gyazo.com/4aa9f9affa0d296d9bf990d00ef4ebe3
2021年、「1900年に生まれた彼らと、100年後を生きるわれわれは、相似の位置にいる。まるで鏡をはさんで向う側と、こちら側にいるかのようである。」なんて書いていた。ブルース・チャトウィン『黒ヶ丘の上で』を読んでいた。そして「来年には戦争が始まる、みたいな時間軸かどうかはわからないけど、」なんて書いていた。他人事だった。お気軽なもんだった。
2022年、ホメロス『オデュッセイア』を読んでいた。オデュッセイアは英雄オデュッセウスがトロイア戦争が終わってから故郷のイタケーに帰還するまでの長い長い物語だ。そこから転じてオデュッセイア(オデッセイ "Odyssey")は、冒険、探検、探究を意味する言葉になった。トロイア戦争はうんと端折ると、時は紀元前1200年、絶世の美女である妻を略奪されたスパルタ王はギリシャ中の勇者を募って奪われた妻を奪還するべくトロイアに攻め込んだ、というお話。オデュッセイアの主人公「ゼウスの末裔にしてラエルテスが一子、知略縦横のオデュッセウス」は本当にイヤイヤながらトロイア戦争に駆り出されて、結果、並ぶ者のない英雄となった。なのだけれど、戦争が終わって20年、ただ一人、まだグズグズと故郷に帰れないでいた。
2022年、戦争が始まった。100年前と現在はミックスされた。スパニッシュインフルエンザと COVID-19 を、そして、第一次世界大戦とロシアのウクライナ侵攻を。
潜り続けて来た過去と、いま立っているこの場所は、接続されてしまった。それはまるでカーステレオでロードノイズとオーケストラをミックスするみたいに。1年前のプレイリストとクラシカル・ミュージックと Discover Weekly をミックスするみたいに。
書かれたことと書かれなかったこと
2018/12
https://gyazo.com/dbeaf904c46221316cbaf035edd006c4
さて、わたしたちは残念ながら毎日の中でその日に起きた事柄や湧き上がった感情や考えたことのどれがその後重要な鍵になるか見極めることは不可能だ。例えるなら真冬から少しだけ春に近づいた日々に木々の色合いがわずかに変化する様子をその日一日だけで見極めることが出来ないということ。数ヶ月の後に見比べたなら明らかに季節の変化は木々の色を変えるけども毎日の中でそれを知るのは困難だ。小学生のころアサガオの絵日記の宿題があった。毎日その様子を絵に描くのだが、毎日にそんなに変化はない。子供心にもそれだと面白くないと思ったのか少しずつデフォルメして描いていた。気がついたときには実際のアサガオより絵日記のアサガオの方が大きく成長した。そういうものだ。
「今週末の良かったこと」、最初は本当にその週末の出来事、事柄、雰囲気を書いていたけど、だんだんその週のまとめを書くようになる。書かれるのは読書のこと、音楽のこと、サッカーのこと、コーヒーのこと。走ること。だいたいそんな感じ。なんでも書けるわけではない。所詮、文章などというものは文章として書けるようなものしか書かれない。書かれるものよりも書かれないものの方が遥かに多い。
実際にその過程で見たこと感じたことのうち文章に出来ることはほんのわずかでしかない。そして書かれなかったことはまたきっとあっという間に忘れてしまうだろう。それだけじゃなくて書かれたことも忘れ去られてしまう。書くことにはそういうところがある。書いて忘れる。忘れることで先に進む。
このときにはまだ理解出来ていなかったが、
書かなかったが故に、忘れられられないことがある
ちょっと思うこと
2023/03/03
肝心なことはなにも書かれなかった
その時にも書かれなかったし、その最後にも書かれなかったし、いまもまだ書かれていない
書かれていなかったけど、間違いなく呪いにはかかっていたし、おそらくいまもかかっているだろう
それが書かれなかったのだとしたら、じゃあ、日記に書かれているものは、いったいなんなのだろうか
コピー・アンド・ペーストにある記録(記憶)
https://gyazo.com/96ad0b7ae5290bd33d008354a0e5868a
ここにあるコピー・アンド・ペーストの痕跡に、足を掻いている様子が残っている
というか自分の場合、コピー・アンド・ペーストの中にこそ、書かれなかったことが残されているのかもしれない