道徳理論の独立性
The Independence of Moral Theory
Rawls, John. 1975. ʻThe Independence of Moral Theory.ʼ Proceedings and Addresses of the American Philosophical Association 48: 5-22. Reprinted in CP Chapter 15.
言及されている論文
3. 「分水嶺」としての 『正義論』
p.153
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以上見てきたように、分析哲学は論証と正当化 —— 立場を示し、その理由を示し、理性的に説得する一連のプロセス —— に強い関心を寄せる。 しばしば分析哲学者の一人に数えられるロールズも、この点で例外ではない (Daniels 2001)。
『正義論』に付された最終節 「正当化に関する結論的考察」のなかで、彼は次のように述べている。
「正当化は、われわれと意見を異にする人々に …… 向けられた論証である」 (Rawls 1971: 580/452)。
それは原理的にいって、自分とは立場の異なる相手を、強制やレトリックによってではなく、理性や推論によって説得する試みである。そこで「理想的には、ある人に対してある正義の構想を正当化することは、われわれが共に受け入れる前提に基づいてその諸原理を彼に証明することである」 (Rawls 154 1971: 5801/452)。
ロールズが他の分析哲学者と共有しているものは、この 「われわれが共に受け入れる前提」に基づいた論証と正当化への強い関心である。
ただし、この引用中には、従来の分析哲学との連続性と共に、そこからのある種の断絶も示されていることに注意したい。すなわち、「ある正義の構想を正当化すること」 への直接的関心のことである。 この関心があるからこそ、本稿冒頭に示したように、『正義論』は「過去と現在を隔てる分水嶺である」 と言われるのである。
本節では、ロールズの試みがなぜ現代政治理論上の分水嶺になるに至ったのかを、『正義論』出版以前の分析的政 治理論の状況と照らし合わせながら確認してみたい。
p.155
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しかし、同時にロールズが強調するのは、概念分析を行うだけで特定の価値判断を正当化することはできないという点である。
「いずれにせよ、論理と定義の真理だけにもとづいた実質的な正義論を展開することは、明らかに不可能である」 (Rawls 1971: 51/36)。
ロールズが展開する正義論において、意味や分析性の観念は何ら本質的な役割を演じていない。 彼は『正義論』の序文で、このことをW・V・クワインから間接的に学んだと述べている (Rawls 1971: xi/xiii)。
こうしてロールズは,従来の(狭い) 分析哲学の伝統から離れて、「意味と定義の問題を棚上げし、実質的な正義論を 展開する仕事に取りかかる」のである (Rawls 1971: 579/451)(脚注 7)。
(脚注 7)
この点を詳論したのが 「道徳理論の独立性」 論文 (Rawls 1975 1999: ch. 15 ) である。 バリーはここに、現代政治理論上の決定的な 「分水嶺」 を見出す。 すなわち、一方で「政治的論証」を含む従来の分析的政治理論の著作が、政治 的言語の概念分析の厳密性に固執していたのに比べて、他方で 「正義論』には、何らかの価値判断を提示するという「政治哲学的営為のグランド・マナー」への回帰が見出されるという点である (Barry 1990: 1xx)。
とくに 画期的であるといえるのは、「実質的な正義論を展開する」にあたり、その価値判断が単なる主観的選好ではなく説得的理由に基づいていることを示 すため、ロールズが『正義論』中で採用した論証と正当化の方法であった。すなわち、彼が正義の二原理を正当化する際に用いる「原初状態」と「反照的均衡」の二つの観念である。
本稿ではこれら両者を、それぞれ科学方法論における演繹法と帰納法の一種として考察してみたい。
(私見: この「分析哲学」との決別、概念分析からの脱却のための手法が 反照的均衡)