ブルーノ・ムナーリのヴィジュアル・メッセージ
from デザインとヴィジュアル・コミュニケーション
ブルーノ・ムナーリのビジュアル・コミュニケーション
https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2025/04/07/140329#ブルーノムナーリのビジュアルコミュニケーション
https://gyazo.com/8ed6025b5ff4f7fe3bab3e6dbf15204b
第1部「ハーヴァードからの手紙」
第2節 プログラムを個人に適応させる、その逆ではなく p15.f
<最後>
おおかたの視覚言語はよく知られています。その情報となるデータはつねに更新される必要があり、個人で実験を行うとより多くのことを学ぶことができます。次のような芸術家がいるでしょうか、「わたしにはこのように見えるのです。だから他の人はそう見えるように自己変革してください、そうでないとわたしのことを全然理解していないということになりますよ」。芸術家は世界について、自分だけのイメージを所有しています。ただ、それが意味をもつのは、ヴィジュアル・コミュニケーション、つまりイメージの媒体が客観的価値をもつときのみです。そうでないと、たいてい秘密めいた暗号の世界に入り込むことになり、メッセージはほんのわずかな人間にしか理解されません。その上、この人たちがメッセージを理解できたといっても、あらかじめ知っていることだったからなんですけどね。
第3節 知っていることを見ている p18.f
<冒頭>
優秀な印刷工が新刊を手に取ると、まず表紙を見て裏を見る。そしてしっかりと指で折り目をつけながら本を開く。どのようにレイアウトされているか、書体は何を使っているか、オリジナルの文字なのか、どこから借用してきたのか。じっくりとタイポグラフィーの特徴を見る。紙を触りながら綴じ方に目を移し、背表紙を見る。丸みを帯びているのか、角張っているのか、どのように本文が始まるのか(どのくらいの高さか)、どのくらいの余白があるのか、ページ数はどこに打ってあるか、その他いろいろなことについてじっくりと批評のまなざしを向ける。
一方印刷について何の知識もない読み手は、タイトルを読み、値段を確認して、購入し、本文を読む。どんな文字の題字だったか聞いてみても無駄。何も分からないし、興味もない。彼のもつ個人的イメージの世界には、こういったことはなんの接点もない。なぜなら、まずうそれについて知っている事柄がなく、どんなタイポグラフィーの文字かなんてことは見てもいないのだから。
私たちの周囲にあるさまざまなイメージを知ることは、現実と触れ合う可能性を広げます。つまり見るほどに理解度も増すのです。モノを見ることはとても楽しいことです。それがたとえ表面の一部だけであっても。ここではそれを「テクスチャー」と呼びます。テクスチャーとは、統一感を変えることのない記号によって、表面に質感(自然のものでも、人工的なものでも)を与えることです
第2部「ヴィジュアル・コミュニケーション」
第1節 ヴィジュアル・コミュニケーション(序文) p93.ff
<冒頭>
《ヴィジュアル・コミュニケーション》とは何を意味するのか定義することは可能でしょうか?実質的には、私たちの目が見るものすべてがヴィジュアル・コミュニケーションである。例えば、雲、花、製図、靴、マニフェスト、トンボ、テレグラムといった類(内容は除く)、旗など。イメージはどんなものでも、それが挿入される文脈によってさまざまな価値をもち、異なる情報を与える。しかし私たちの目を通過するこうしたあらゆるメッセージのなかに、少なくとも2つの区分をもうけるうことからはじめてみてはどうだろう。つまりコミュニケーションが偶発的なものであるか、または意図的なものであるかを区別してみるのである。
偶発的なヴィジュアル・コミュニケーション
例:
空を通り抜ける雲
受信者によって自由に解釈される可能性がある
意図的なヴィジュアル・コミュニケーション
2つの側面
実質的情報
美的な構成要素をもたない
例:
製図、報道写真(?)、テレビからの資格情報、交通標識
美的情報
例:
1つのフォルムを構成する調和のとれた線
1つの3次元構造体におけるヴォリュームの関係
1つのフォルムから他のフォルウムへ変容する際の視覚的な時間経過の関係
といったことを私たちに知らせるメッセージ
https://gyazo.com/c9b3ca3f32402354ebfc19c8dc9fd49c
しかし美感とは万人にとって同じものではなく民族の数だけ、あるいは世界の人間の数だけ存在するものだ。だから1枚の製図、あるいは一葉の報道写真に、それぞれが個別の美を見出しうる。
しかしヴィジュアル・オペレーターは、美を客観的に理解できるようなデータによって明らかにする術を心得る必要がある。
そこでこうした規則を簡単な統計調査によって確定していこうと思う。
第2節 ヴィジュアル・メッセージ p96.f
https://gyazo.com/0795653903b9f06d825a9b280b8f5bcd
EMITTENTE E RICEVENTE
英語: ISSUER AND RECIPIENT
日本語: 発行者と受取人
https://gyazo.com/145c94399fe48693a3fe6488f6ab6274
発信者と受信者
翻訳、原文とニュアンスがちょっと違うかもしれない
発行者と受取人
<冒頭>
ヴィジュアル・コミュニケーションは、ヴィジュアル・メッセージを通じて行われる。ヴィジュアル・メッセージとは私たちの感覚を突くあらゆるメッセージ —— 音、熱、ダイナミズムなど —— からなる大きなファミリーの一員をなしている。
さて発信者はメッセージを発信し、受信者はそれを受け取ると考えることができる。しかしながら、受信者というのは妨害に満ちた環境に浸かっており、その妨害はある種のメッセージを変質させたり、あるいはより直接的に無効にすることもありうる。例えば、赤信号は、赤い光が優勢な環境の中ではほとんど効果をもたない。また、平凡な色の交通標語が、同じように平凡な他の標識と並べられていたら、お互いに混ざり合い、均一化して効果を失わせてしまうだろう。狼煙によってメッセージを伝達するインディアンは、雷雨によって妨害されるかもしれない。
そこでヴィジュアル・メッセージが、発信される際に歪曲されないような方法で、うまく計画されていると仮定しよう。このメッセージは受信者に到達する。しかしここでも、また別の障害物に出会うことになる。それぞれの受信者はそれぞれが異なる方法で、フィルターと定義していいものを所有している。メッセージが受け取られるにはいくつかのフィルターを通過せねばならない。
こうしたフィルターのうちの1つは、感覚器官のような性格(感覚的フィルター)をもっている。例:先天性色盲症の人はある種の色がみえない。だからメッセージが色彩言語にのみ基づいたものならば、そのメッセージは変質してしまうか、より直接的には無効となる。
もう1つは、操作的フィルターと定義してもいいものであり、これは受信者の体質による精神ー生理学的な性格に左右される。例:あるメッセージを分析するのに、3歳の子供と年長の者の方法では異なる。
そして3つ目は、文化的フィルターと定義づけていいものであり、これは受信者がそれと認識するメッセージだけを通過させる。つまりこのフィルターは、個々の文化的世界の一部を成しているのである。例:多くの欧米人は東洋の音楽を音楽として認識できない。なぜならその音楽は、彼らの文化規範に合致しないからである。彼にとっての音楽とは、幼少期よりずっと聞き知っている音楽で"あるべき"であり、それ以外は"あるべき"ではないからだ。
この3つのフィルターを厳密に分けることはできないし、命令されたからといって次々と作用するわけでもない。そうではなくて、互いに相反したり、混成したりするものである。
そこで最終的に、1つのメッセージは、妨害ゾーン、フィルターゾーンを通過し、受信者の内的ゾーンへと到達すると仮定してみる。この内的ゾーンは受信者の発信ゾーンと呼ぶこともでき、そこで受け取ったメッセージに対し2種類の返答、つまり「内的な返答」と、「外的な返答」を発信する。例:もしヴィジュアル・メッセージが《ここにバールがあります》と言うとしよう。「外的な返答」は、そこで何かを飲むようにその人を送る。「内的返答」は「ノドは乾いていないよ」となる。
第3部 メッセージの解体 p99.f
https://gyazo.com/b442f81e81fb785f75f5a230a84d046b
ヴィジュアル・コミュニケーションについて学ばねばならないとしたら、次のような種類のメッセージを考察し、その構成要素を分析するのがいいのではないだろうか。まずメッセージは2つの要素に分けることができる。
1つは、そのメッセージによりもたらされる正しく的確な情報。もう1つは、視覚媒体である。
視覚媒体とは、メッセージを目に見えるようにする要素の総体のことであり、そのすべての要素は情報に対して最大の一貫性をもって使用できるように、検分され、深く理解されねばならない。
その要素とはテクスチャー、フォルム、構造(ストラクチャー)、モデュール(モジュール)、動きである。
いまここに挙げた諸要素のあいだに正確な境界線をもうけるのは容易ではないし、おそらく可能ではないだろう。それどころか、すべての要素が一緒に表されることが多い。
一本の木を考察するとき、私たちは樹皮のテクスチャー、葉のフォルム、そして木全体のフォルム、葉脈、道管、枝の分岐の構造、その木特有の構造要素におけるモデュール、種子から芽、花、果実、ふたたび種子へという生長のサイクルにおける時間のディメンションを視る。
また、1つのテクスチャーを虫眼鏡でじっくり観察すれば、テクスチャーが構造に見え、モデュールが認識できなくなるまで構造を縮小すれば、構造がテクスチャーに見えるということが分かっている。
したがって私は、ヴィジュアル・コミュニケーションについて考察しているここでは、人間の目をカテゴリーの参照点として捉えることを提言したい。
そうすると次のように断定できるのではないだろうか。つまり目が均質な表面や、素材や図柄においてある特徴をもっている表面を知覚すれば、その表面をテクスチャーとして捉えられ、また、より大きなモデュールを、下位モデュールへと細分化しうるフォルムとして認識できるほど大きなモデュールとして知覚すれば、テクスチャーを構造として捉えられる、と。
そして、フォルムの時間的ディメンションについて考察するなら、あるテクスチャーが構造へと変容することについても考えられるだろうし、または、ある特殊な内部要素をもったモデュール —— 積み重ねて構造にし、縮小すれば、独特な性格をもったテクスチャーになるようなモデュール —— を発案することもできるだろう。
https://gyazo.com/88123946fabefec5b4a726a05d25d276
以降のページにて、それぞれの「視覚媒体」について、大量の図版、図表を示す
1. テクスチャーとフォルム
2. 構造とモデュール
テクスチャーとフォルム、構造とモデュール、のそれぞれの組み合わせは明確に分けられていない。同時に扱われている
ムナーリ『デザインとヴィジュアル・コミュニケーション』、小口を見ればわかるけど、そのほとんどが図表、図版、写真。凄まじい物量 https://x.com/taizooo/status/1908705173318623434
https://gyazo.com/a93dc8530d77d117f1fe7404b70de9ad