やなせたかし
デザイナー 漫画家
イラストレーター 詩人 作詞
構成作家 シナリオライター
父親が中国に留学していたスーザンという山から、たかし嵩という漢字 を取った
父親が5歳の頃に亡くなった
弟は医者の用紙になった
7歳の頃母親が再婚相手のところにで帰ってこなくなった
幼少期は弟の方が体が弱く 成績も悪かったが 弟が健康になるにつれて 学業等で弟が優秀になり それで 比較された
高校受験に失敗、二浪
図案(デザイン)の選考で合格する
高校時代は銀座で結構 遊んでいた
高校卒業時に色々援助をしてもらっていたおじさんが亡くなる
弟がやなせ家の当主になった
卒業して 製薬会社のパッケージデザイン
就職して1年後 戦争に 徴兵される
21才から26才まで陸軍に従事
地元ではない九州小倉の部隊に配属
訓練が厳しい。殴られて顔が変形するなど
やなせは意外と適応する
班長の世話、馬の世話をする
馬に蹴られて前歯をおられる
南京に馬を届ける
下士官になる
暗号班、暗号解読の仕事
上司になったが、部下を殴らなかった
弟は海軍中尉になっていた
最後の挨拶に来た
中国の村を占領していた
プロパガンダで絵本を描いていた
満州から上海までの移動が大変だった
マラリアを発症、飢餓を体験する
文化活動が部隊内で流行する
軍のエリートがやなせに相談しに来る。今後どのようにするか
やなせは作曲や舞台演出をしていた
アメリカ軍との対比、服装がキレイ、冷蔵庫にコーラがあるなど
高知まで帰省する
弟が理不尽に亡くなる
飢えがツライ
正義は揺れるもの
戦争は人をおかしくさせる
戦争の経験を語らなかった。
恥ずかしさがあった。激戦地でもなく、空襲も受けていない
終戦後 地元に戻る 終戦後 しばらくは あまり何も手につかない状態だったが 戦友の勧めで廃品回収の仕事をする
ここで 進駐軍(アメリカ軍)の雑誌に触れて、紙質の良さ デザインのなどに感銘を受けて またデザイナー 仕事をしたいと思うようになる
新聞社に勤め 奥さんとなる人に出会う
東京に行き 三越の宣伝部に転職する
副業として 漫画を書いていた
6年間三越に勤めた後 退職した
漫画の仕事は ヒットせず 雑多な仕事を依頼されたもの はすべてこなしていた
50歳までそういった仕事だった
やなせは 芸能界で 頼られるような優秀なクリエイターだったが 漫画家としてのヒットしていないという感覚だったと思われる
手塚治虫、石ノ森章太郎などは 漫画で大ヒットしていた
代表作 として手のひらを太陽に がある
ラジオのドラマとして優しいライオンという話を書いた それが 絵本化してヒットになる
その出版社がアンパンマン の出版社である
手塚治虫から連絡がある
やなせたかし 48歳の時
仕事ぶりを学んだ
その後仕事の報酬として 短編映画を制作しても良いということになり 優しい ライオンを アニメ化した
自身のキャラクターデザインの才能に気づいた
サンリオの創業者と名刺交換するなどして出会っていた
サンリオの車内に出発を作り そこで 宿の詩集を出版することになった
詩とメルヘン
そこそこ売れたので詩とメルヘン という大人向けの雑誌を作ることになり、その編集長をやなせが担当した
やなせが自ら手掛ける代表的な仕事となった
最初は大人向けのアンパンマン ラジオドラマで作っていた
アンパンマンの哲学
一般的なヒーロー像に対するアンチテーゼ
変わらない正義は植えた人に物を食べ物を与えること
設定の元は フランケンシュタインの怪物
外見が見にくい かっこ悪いヒーロー
内面とのギャップ
幸せの青い鳥に出てくるファンの妖精もネタになっている
アンパン 幼少時に迷子になった時に友人の親からもらったアンパンを空腹時に食べた記憶
日本人のアナロジーでもある。パンの中にあんこ、洋服に身を包んだ日本人
アンパンマンの内容は大人には理解されなかったが 子供には ヒットしていた
プロデューサーがアンパンマンの企画を通し続けて アニメ化が決定した
それ以降は 大ヒット
バイキンマンの話
絵本がヒットしミュージカル化の話があった
ミュージカルでアンパンマンの内容 ブラッシュアップしていった
バイキンマンは黒いハエがベース
ヤナセ たかしの経験からミュージカルや舞台などの演出にもこだわりがあった
アンパンマンショーは今でも行われている
一方によるのではなく 両方のバランスが重要という考え
バイキンマンいろんな武器は菌の変異を表現している
アンパンマン アニメ 放送中は病気を複数 発症していて 肉体的な負担が大きかった
アイドル活動を行っていた
パーティーの主催 企画演出などを行っていた
74歳で妻 ノブさんと死別した
東日本大震災、亡くなる2年前