ガリレオと 7 つの大罪
と言ってもガリレオが大罪を犯したという話ではない。ガリレオに関する逸話はたくさんあるが,「重いものと軽いものはどちらが先に落ちるか」という問題に対して,ピサの斜塔(実際はピサの斜塔であるという歴史的証拠はない)で実験して同じであることを示した,というのもその一つである。それまでは重いものが先に落ちるというギリシャ時代のアリストテレスの説が 2000 年にわたって盲目的に信じられていたのだが,実際に実験によって確かめるというガリレオの科学的態度によって,アリストテレス説は否定されたというのが大まかな話である。「ガリレオ + アリストテレス」で検索してみるといろいろでてくる。(関係ないが,「[ピサの斜塔 + マヌケ」で画像検索するとマヌケな画像がでてくる。) で,ここで注目したいのは,アリストテレスからガリレオまで 2000 年もかかっているということである。その間に,ローマ帝国は当時知られていた世界の果てまで街道をつくり,プトレマイオスは惑星の運行のみならず日食や月食を正確に予測し,アラブ世界では化学や代数学が発達するなどの発展があったにもかかわらす,ものが落ちるというごく日常的なことに対して,誤った説が正されなかったのである。2000 年もの長きにわたって。
これにはいろいろと理由が考えられるがが,ひとつ思い当たるのは,人類は 2000 年のあいだ,物体の重さと落下する速さの関係について,とくに知る必要がなかったということである。もし,アリストテレスの時代に重いものと軽いものを落として,その落下の時間差を利用するような道具が考えられたとしたら,実際に作ってみてうまく作動しないので,両者は同じように落下することが即座に知られたに違いない。しかし,実際にはそういう道具は作られなかった。そして,その後の人類の発展において,アッピア街道の建設にも惑星の周転円の計算にもアルカリの精製にも,落体問題は必要なかったのである。では,ガリレオが落体問題を実際に使ってなにかしたか,というとそうではないのだが,これは「なにかに役に立つかは別として,とにかく面白そうだから確かめてみよう」というルネッサンス精神によるものであろう。
この話に付随して,科学と技術の関係という面白い話題もあるのだがこれは別項にゆずるとして,時代は 21 世紀にとんで,ここで「7 つの大罪」の登場である。これはタイトルをキャッチーにするために「The Seven Deadly Sins of Psychology 」(邦訳「心理学の7つの大罪」)という書名から借りてきた。冒頭に述べたとおり,ガリレオが罪を犯したというわけではない。(ガリレオ先生,すみません。)この本は現代の心理学に関する諸問題を論じているのだが,深刻な問題として,再現性の危機(Wikipedia)がとりあげられている。「再現性の危機」とは,発表された論文に書いてある実験を他の研究者が(あるいは論文の著者本人でさえも)再度追試としてやってみるど,驚くほど多くの場合で論文と違った結果がでるという問題である。 で,そんなに多くの論文に再現性問題があって大丈夫なのか,と思うのは自然なことだが,筆者の考えでは,これは大抵の場合大丈夫である。なぜか? 多くの論文の結果はギリシャ時代のアリストテレスの落体理論と同じで,それが正しいかどうかを知る必要がないからである。つまりどうでもいいということだ。たとえば,上述の「Science Fictions」には,「セサミストリートのエルモのシールをりんごに貼ると,それが子供に選ばれる確率が統計的有意にあがる」という研究が紹介されているが,それって誰か知りたいの? (エルモじゃなくてカーミットだったらどうなる?)ちなみに,「Science Finctions」の本一冊を読むのはカッタリーや,というむきには,正確な概説とは言い難いがこの動画をおすすめする。このチャンネルは筆者が最近ハマっていて,「Science Finctions」を含む複数の本をここ経由で知った。 アリストテレスの場合は,後世になってこれは面白い問題だ,となってガリレオが実験するわけだが,現代の論文のほとんどは(筆者の論文を含め;涙)後世に渡ってどうでもいい結果なので,エルモの効果のように,だれかがわざわざ確かめる必要がないと言ったら言いすぎだろうか。もちろん,たとえばウェイクフィールドの論文のように,現実社会に深刻な影響をおよぼすものもあり,そういう論文は厳しくチェックされるべきであるが,上で書いた「驚くほど多い」の大多数はもし,間違えていてもどうでもいいことなのである。それが不正であるか,単なる事故によるものかは関係ない。それどころか,結果がただしいかどうかさえ,問題にならない。 おまけ:どうでもいいことだが,上にあげた「Science Fictions」という本には,意図した結果がでなくてうまくいかなかった研究を「null」(なにもないこと)と呼んで,多くの場合,お蔵(file drawer)入りになって発表されないということについて論じている。その議論に全く異論はないが,「普段からポルノを見る男性とポルノを一度も見たことがない男性を比較研究するための調査を実施しましたが、ポルノを見たことがない20代の男性が1人も見つからず、研究は頓挫してしまったそうです」というモントリオール大学の話は null でも成果があったという例外になるのではなかろうか,この研究は当初の目的は達せられなかったが,副次的に興味深い結果がいろいろと得られたそう] だ。筆者は心理学は門外漢なので,詳しい方の評価が知りたい。 質問・コメントなどは twitter/X のアカウント @gandhara16 かメールアドレス tadas@fpu.ac.jp にお願いします。 (2024/8/5 初稿)