必然性崩壊欲求
人間は無意識に滅びを求めている
幾百年、幾千年。それだけ歴史を巡っても結局変わんない、人間を巡る滅びの連鎖。
人間は悪意を以て、自分達を傷つけんとする
人間は善意を以て、自分達を滅ぼそうとする
救いの道を獲てしても人々はまた滅ぼし合う
人間は自ずから人間の根源すら否定してみる
“自己”と“他者”というコンセプトがある限り、人が排する意思は消えない。
人は無意識に争いを求めていて、それが滅びにつながっているのかもしれない。
人間は、喜びを得ても悲しみで終わる、希望を得ても絶望で終わる。
生き物が生まれた時から死へ向かって歩みを進めるように、滅びへ向かうサイクルに囚われている。
それに抗うように人間は、歴史の中で滅びに向かう道を潰そうとするけど、
それを補うように新しく滅びる道を作ってしまう。
人はどうせ滅びる。
それが美だと言う人もいる。それが悪だと言う人もいる。それが人だと言う人もいる。それが命だと言う人もいる。
“年頃の子”が持ちがちな、根源的な死への恐怖のような、あるいはやんわりとしたこ希死願望のような、
いや、これは自身に巣食うペシミズムじみた諦念が呼んでるのかも?
本当に、自分も“年頃の子”なんだなって、絶望する。
よくある話だけど、怖えんだよ、怖えんかな?いや、諦め?哀れみかな、これは。憂い?
全ての歯車はゆっくりと、ただゆっくりと崩壊へと向かっていて。その周り続ける車輪に腕は引き裂かれて人々は祈る手も組めない。それでもなぜ、生き続ける?もうなんか、可笑しいと思うんだよ。なんでまだ立ってられんだろうって、歩き出せるんだろうって。可笑しいよ、ぜったい。
喜びは悲しみになって
希望は絶望になっていく
世界中で共通しているそれは
最後は滅びへ向かって行く
時代を積み重ねて時間を重ねるごとに人間は滅びる為の進化を続けている
平和な状況が続いても、少し危機感を覚えたり、未来を憂慮したり、自分達の権利を欲したり。
数えきれない理由の中で悲しみと絶望を生み出して行く
石斧やナイフは火薬になって核になり、ネットワークって新たな世界の確立で遠隔でも人を傷つけられるようになった。
何もかも希望や喜びで終わる事はない、常に終わるのは絶望や悲しみなのに
それらを生み出す環境を人間は際限なく整える
それってやっぱり人間が無意識に滅びたがっているからこそ成せる業なんだよ。
俺が、日常という喜悲劇が大嫌いで、何よりも、この信仰のような愛を捧げているような、とにかく心から愛しているのは、
人間が滅びを求めてただゆっくりと、“生き続ける”というこの、狂った世界なのが、
怖くて、暖かくて、恐ろしくて、優しくて、美しくて、醜くて、大嫌いで、だからこそ大好きだからなんだろうなって。
“物語”は、一つの回答として、こう答えた。
「人は絶望で終わるかもしれない」
「だけど、◯◯のお話ではみんな希望を求めているし、」
「ちゃんとハッピーエンドで終わるお話がいっぱいある」
「◯◯だけじゃない、他のアニメもマンガも映画も絵本も」
「希望を見つける為のお話はいっぱいある」
「それにみんなが夢中になれるのは、きっと希望を求めているからだ。」
『滅びは求めていないの?』
「怖いマンガもあるから、求めてもいるかもしれない」
『ハッキリしないね。』
「ハッキリしないものなの!ハッキリしないのが人間なの!」
「バラバラでグチャグチャだから、いろんなお話があるの!」
「白黒なんてないの!グレーが人間なの!メイビーだけど...」
...だ、そうだ。
んね。実に物語らしい回答。濁されたような気にもなったけど、でも一つの答えの形なのかもしれない。
自分の答えとは違うけど、でも似たり寄ったり。やっぱり人間はハッキリしないという事。答えらしい答えなんてない事。
特に「バラバラでグチャグチャだから」これは繋がるものがあった。
争いのない世界、真の意味で平和な世界。きっとこの悲観主義じみた諦念がやっと安心する時。
それはきっと...。
あー、確か、キリスト教だったかな、なんかの神話?ちがうかも。元々人間は一つの肉の塊だった、6つの腕と六つの足とそれぞれ2個づつの性器がついている。んでなんかそれが...神の雷かなんかかなで裂かれて男男と男女と女女に別れた。男女っていうのは、あれかな両生器具みたいなやつ。あ、ちなみの男女は神に殺されてた気がする。は置いといて、で、元々同じ物だったから、男と女は運命のように惹かれ合うみたいな。話。って言う、運命論者の十八番があるんだよ。
別に自分は運命論者って程でもないけど、この話は気に入っている。
自分が気に入っている、「スイーツの哲学」の、アフォガート。最大級の“甘い”であるヒヤヒヤなバニラアイス、そこに“苦み”の究極であるあつあつのエスプレッソをかけ流す。ドロドロに溶けたそのスイーツはシンプルだけどお互いの甘さと苦さを引き立て合う。一方のみしか認めれず、もう一方を受け入れられない姿勢では絶対に辿り着けない、ある境地。究極のアンティノミー。俺はこの大好きなスイーツに救いを見出せた。
人が皆、お互いを受け入れる心を持っていれば、そうアフォガードのような包容を持っていれば、元から争いなんて無いのに。
でもきっとそれは表面上の救いで、本当の、自分が感じた「真の平和」は、
そう、「affogato」(アフォガード)は元来、イタリア語で「溺れる」という意味をもつらしいね。真実の平和っていうのはお互いに溺れ合う、まさにバニラアイスをエスプレッソが融かし、エスプレッソをバニラアイスが冷ます様な、ドロドロに溶け合った依存のようなものなのかなぁ。人間に“自己”と“他者”というコンセプトがある限り、人が排する意思は消えない、なら”お互い“が存在している以上は或いは争いなんて無くならない。そう、まさに、まだ雷か何かで引き裂かれる前、人間がまだ肉の塊だった頃。全てをあの頃に戻せば、きっと争いなんてなくなるんじゃないかな。
この諦念と言うにふさわしい、特に理由はない、絶望?に決着がつくならば、そんな世界になれば、なのだろうか?