借問的バースデーカード
背景、わがともへ。
16歳を迎えるもずへ祝福と応援を贈ります。
硬い書き口調で書くと余計に気恥ずかしいので砕けた口調で失礼。
なんです?とりあえずお誕生日おめでとうございます。
もずなら死へとまた一歩を進めたとか言いそうですが、節目とはいえ連続する日々の1日でしかないわけで、日々を生きていくって感じで行きましょうよ。
16、ってなると青春の葛藤がピークを達する一番大切な時期ですからして一番精神的に持ってかれるかもしないし、そして精神的に最も成長できる時期でもあります。
そうだねー、もずちゃんはもずちゃんを置いて他に存在しないので、周りなんか気にせず、考えず、どうか他人と比べずに、と言っても、同時にもずちゃんは無数にしかも連続的に存在している、いたといえるだろうか。言いたいことは、もずちゃんと同じ存在がいるとしても過去の自分くらいですからして比べるとしても昨日の自分かさっきの自分かくらいにしましょうや、って事です。
仮に熱情が冷えてしまっても、火が消えたらまた灯せばいいのさ、燃やし続ければいい。継続“のみ”力なり、あとはどんな事でも遊ぼうや。
ってわけで何言いたかったんだっけ。
あそだ。
さて、俺はめちゃくちゃ口下手なので、人に応援等をする時は代わりに言葉を贈ると決めています。
ということで16歳になったもずちゃんへ贈る、俺なりに精一杯の言葉です。
「Show is going on!」
ショーは継続されている。
曰く、人生は喜劇のようなものである。たかだかが60分未満が制限時間の劇も、せいぜい100年も生やしない人間の人生も、宇宙とか地球とかの歴史で見てみればほんの僅かな一瞬に過ぎないのかもしれない。
既に君の人生の幕開けは済んでいる。いや、まだ幕は開けていないかもしれない。でもどん帳が開ける前も、舞台に立って踊ろうと、幕引きのその後も、きっと劇ってのは継続されているんだと俺は考えている。物事は全て一貫性があって繋がり合い、大事じゃない瞬間なんて1秒もない、ただ今を生きようや。
16年、どうだったよ。まあまだ意味を見出せる時間じゃないかな?。喜劇っていうのはメッセージ、特に意味性を大事にする。まあ自分の人生に意味を見出せるひともそーおおくないけど、いつか意味性を見出せたら、共有したいところだね。
もずちゃんという脚本の主人公はもずちゃんで、その脚本家ももずちゃんだ。今はとりあえず、もずちゃんと言う主役を演じてみようぜ。演じる、ってちょっと好きじゃなくて、好きじゃないと言うか、俺は演技を「舞台の上で生きる事」「舞台の上で出会い感じ見聞きし分かり、翻弄され、葛藤し、恋をして死ぬ事」だと思っているから、言い方はこうだ、ひとまずはもずちゃんと言う人生を生き続けてみようや。
ってことで。
我が友よ、君の人生に光あれ...とでも言いたいところだけど、
そうですね、ここは洒落てみようか?
常々言っててくどいかもだけど、僕は日々、劇作家チェーホフの精神世界に影響されてて、日常と言う喜悲劇とそこに聳える“無意味”と、日々対峙している。チェーホフだが、彼は無意味に解体された世界を露呈して、存在の奥に巣食う無意味の深淵を暴き立ててしまった。ゴーゴリやトルストイよろしく、ロシア文学者らしい狂気の渦の中でもがく苦しい生き方だったろう。結局晩年まで、その日常と言う闇から抜け出せはしなかった。恐らく彼もその殺伐とした心の闇から救われたいと願ってたんだろうが、彼は実証主義医学を学んだ医者で無神論者の彼には宗教に救いは見出せなかった、革命という社会的な変革に救いを求めるにはあまりにも熱狂が不足していた。そんな彼が日常と言う、「無意味」の果てに掴んだほんの僅かな光は、晩年の脚本の演出に見られるようになった。それは、「音」だ、音の洪水、奔流。あるト書きでは、「空から響いてくるような、弦が切れた音」のように、言葉という極度に抽象的な概念によって指示された「音」だった。実際に舞台の上で出される「音」にとは無限の隔たりがあったとしても、それも承知でなおチェーホフは音に何かを託した。
「音」それこそが、日常と言う喜悲劇から救いを見出せる、かすかな光だそうだと。
勿論、君のボカロにもかけてね。
あ、於菟、にかけたつもりではなかったよ!?
まあでもまあ、これからもよろしく。
てなわけで、
どうか君の日常に、福音あれ。
ってね。
或るてつがくしゃ、或るもずの友より。