シガーキス
シガーキス
ようやく触れたくちずけ まだシガーキスには遠い
雨が降ると、自分と自分を取り巻く周囲数センチだけが世界から断絶され、異世界に放り込まれる感覚に陥る
もちろんただの錯覚にすぎないしセンチメンタルなその時々の気分次第だが、そう感じる時がある。
既に夜の帳が降り始めていて、どんよりとした登り始めた9月の月は、その全体を覆い隠されていた。しとしとと雨を産み月の輪郭をおぼろげにする雲のせいでもあるが、昼の時間も随分短くなったなと、一夏の最後をしみじみと感じていた。
普段騒がしくて吐き気のするほど煩いが、今はしんとして、ただ窓の外の雨粒が織り成す薄く心地の良い音色に耳を傾けつつ、その演奏を邪魔しないように、いや教室に残っている教員にバレないように、既に下校時刻を過ぎた校舎を音を立てずにゆっくりと進んでいく。
普段なら教室に残って屯している女子生徒の、姦しいくっちゃべり声や、よくもまあ毎年初戦も勝てやしない弱小校のくせに、毎日飽きずに怒号を散らして校庭を駆け回る野球部員共の声や、あるいはここのところ夜ふかし気味のセミの鳴き声などが、建てられてから随分古くなった校舎のコンクリートを揺らしているはずが、どうやら今日の雨では皆、音の演奏を邪魔しないようにと、そそくさと帰路についたようで、少し心細さを感じっつつ、3回の一番端の部屋、放送室の扉の前にようやく辿り着いた。
職員室の一番奥の校長と教頭のデスクの横にある、鍵掛けからわざわざ、この部屋用の鍵を持ってこないと、開けられない訳だが、何世代か前の放送委員長がその鍵をくすねてきて、校舎ができた頃の随分前の形式の鍵のため、簡単に合鍵を作ってそこをサボり部屋にしていたようで、それが代々の放送委員長にその名と共に継承され、それで今代である自分の手元に回ってきたわけである。最も、来年には校舎改修が行われて、おそらく自分がこの鍵を受け継ぐ事はないんだろうとおもいつつ鍵を回し、錆びついた音を極力小さく響かせながらドアを開く。
そして普段は部屋の奥のカーテンに隠された、ちょっとしたハシゴを登り、天井のハッチを強引に開く。そうすると点検用の狭い空間を伝って屋上へ出ることが出来る。これを見つけたときは静かに大はしゃぎした。なにしろ反対方面にある増築された新しめの校舎の方の屋上への入口は、毎日お昼の時間になると開放されているが、それ以外の時間には厳重に閉ざされている。高一の時、屋上はいいサボり場になると思うんだよなと模索していた時、このハッチを見つけ、興奮を抑えて高二の時に人気の低い放送委員にわざわざ入り、この最強のサボり場を見つけ、そして唯一秘密を共有していた先代の委員長から今年合鍵を譲り受け、今狭い連絡路を登っているに至る訳である。
ギィ。お世辞にも耳障りがいいとは言えない閉開音を響かせつつ、屋上に不法侵入する。室内とは違って雨音が大きめの喧騒を響かせているが、連絡路から出た場所は日中は日陰になると共に、今は雨のあたらないスペースで、そこにちょこんと申し訳程度に設置されたベンチに腰を掛け、小さく息を吐いた。
別に、人類という種そのものが持つ根源的な闘いへの欲求に深く絶望したとか、悲観主義者の諦念が狂しく暴走した、だとか、そんな大層なものではないけど、ただ少し人間に対して失恋したような、ちょっとした嫌な気分に苛まれてしまって、そんな気分の時は決まってここへ来るのだった。
数本用の煙草ボックスと、15歳の誕生日に親から贈られたオイルライター、ついでに安っぽい携帯灰皿も、ブレザーの内側のポケットから手に取る。携帯灰皿、百均で店員に何か言われないだろうかとどぎまぎしながら買ったやつ、をベンチの上に置いて、それからボックスの蓋を開ける。箱の背を親指で軽く叩き、親のスーツの胸ポケットから、こっそり2,3本くすねてきた煙草を、一本手に取った。
フィルターの方をそっと口に咥え、風を遮るように手を作って、オイルライターの耳障りのいい、屋上の扉とはまるで違って心地良い金属音を雨音に紛らせつつ、先端部分に火をつけた。
火をつけるのはマッチが良いだのなんだの、調べた分だけ湧き出るが、マッチをいちいちつけるのはめんどくさいし、それにこのオイルライター、安物ではなくzippoライター...といっても高価な物ではなく、シンプルなデザインのものだけど、これが気に入っていていつも使う。人生には、『これを使っている自分カッコいい』『この場所を利用している自分カッコいい』みたいな、プライドではないがそんな自身が意外と重要だったりする、んだと思う。
2,3回、強く息を吸って口に溜めては、ふういとゆっくり空気を吐き出す。吸い始めの煙の味は好ましいものじゃないから、決まってる3口目から肺への侵入を許している。
銘柄....なんて言うんだっけ。酔った親がつらつら説教のようにうんちくを話していた、メビウスだっけ?一度親からくすねたもので重たいタバコを吸ったが、本当に口に合わなかったので、決まってこの軽いのにしている。
ベンチに背を持たれて、雨が埋め尽くしている空に煙を吐き出す。いつもなら匂いで人に気づかれるのを気にして、こそこそと吸うけれども、こんな雨の中の中なら気にすることでもないだろ、と、わざとらしく息を吐く。吐き出された白い靄は、ゆらゆら風に揺られ乱れていって、雨の中に融けこむようにその姿を散らしていった。
ざあざあと、雨音の潮騒が相変わらず辺りを包んでいた。その音色に共鳴するように木の葉と葉がざわざわとわざとらしい音を立てていた。喧騒の中、しかし私はとても静かに感じられた。
昔のギリシャには、クロノスとカイロスって違う時間が流れているとされていたらしくて、クロノスは二十四時間の普遍的な時の流れで、カイロスは感じている時間、所謂楽しいと一瞬に感じたり、めんどくさいことは永遠の続くように感じれたりの事らしい。つまりいまこの屋上には、穏やかで静寂に包まれている、そんなカイロスが流れているのかもしれない。
フィルター越しに口に咥えた煙草を気持ち強めに吸い込んで、噎せないようにゆっくりと肺へ煙を押し込んでいく。ぴりりと喉を刺激する煙を感じながら、今会いたい、と同時に、今この姿を絶対に見せたくない相手を煙の中に想像する。きっと今の姿を見られたら四角い性格の彼女は反対するだろう。
ギィ。そんな事を思っていた矢先に鳴るはずのない、いや鳴って欲しく無い耳障りの悪い金属音がなり、騒がしくも穏やかな雨の音が一切止んだような気がした。
「ーーみつけた。」顔を見なくても、声を聞くだけで彼女とわかる。いや、声を聞く前から、なんとなく察し付いてはいた。部活が終わってからここへ来るまでつけられていたのだろう、あいにく尾行を気にする余裕はなかったし、自分がそうした様に足音を隠すには雨音だけで十分だったんだろう。そうして思考を巡らせる内に、自分は、放送室の鍵を開けたは良いものの締め忘れるという、初歩的なミスにようやく気がついた。
とっさに煙草を隠そうとする。ー「隠そうとしても、ここに煙草吸いにきてるのはバレてますよ」ーが、どうやら無駄らしい。
聞き慣れた声の方に目をやれば、雨の湿気を透かしつつ、憂いの色を纏った瞳が、ぼんやりと朱の混じった藍色の空を背景に、じっとこちらを見ていた。
「先輩がストレス感じてそうな時とかの部活終わりに、良く校舎へふらーっと居なくなるの着けてたんです。合鍵で放送室へ入っていくのまでは突き止めていましたが、まさか屋上にいたなんて、...不法侵入じゃないですか?これ。」
「じゃあ共犯って事で。」
「私は告発すれば無罪です。」
と言いつつも、ストンと隣に座ってきた。
「タバコ、結構前からやってますよね。察してはいたんですよ。」
「臭い消し、入念に怠らなかったんだけどなぁ...」
「だからですよ」
「え?」
想像とは反対のことを指摘され、ショックを受けた表情で口をぽかんと開けていた。
「だって先輩、ここに来た後だけやけに消臭剤の香りがしますから。ミントフレーバーの消臭剤の香り。」
「あー、そっちかぁ...。」
「簡単な犯罪心理ですよ。罪の意識があればあるほど、それを隠そうとする。その誤魔化しが顕著に出るものでしょう?」
念入りに念入りを重ねた結果、それで悟られてしまうとは、これは一本取られた...、というより、これもまた自分の初歩的なミスだということだ。
「タバコ、吸うんですね」
「うん、まあね」
できればあまり言及しないでほしいが、彼女は、...なんだ?にはさながらL-Seven?といった所で、曲がったことや正しからぬことは許さない性質で、たしか風紀委員でバリバリ言わせてるんだか何だっけな。将来は警官が夢なんだっけ。自分がボーっとしていたりするとガミガミ言ってくるので、煩わしく思いつつも大切な後輩だ。そして好意を向けられている自覚もまた、あった。ただ、性格の対象的な自分とは合わないだろうと思って、それに自分はなんだ、彼女と釣り合うほどの人間ではないと言うか、彼女が警官なら自分はこう、声をかけられる側のろくでなしなので、極力避けようとしても、しかしまあ所詮この通りなのである。