「(ホントの事と、私の事と、思ったことと、考えてたことと、これまでと、これからと、)日記」
(記憶とはセーブデータなのだと思った。5歳のことである。
そうして死にたいと思った。11歳の頃である。
湯豆腐を、食べたいと思った。昨日の事である。
人間は7,8年で身体のほぼすべての細胞が入れ替わるという。そうなった身体で、私は私であるのだろうか、という科学的視点からの一種の哲学問答がある。5歳の私は、これになんと答えたであろうか。
本当に、達観したガキだったと思う。周りに言われたわけではない、自分でそう思う。小さな身体で(今も小さな身体ということに変わりはないがここでは幼いという意味で)、その身体に余る自問自答を繰り返していた。あんな小さな身体で、死後の世界について真剣に考えを巡らせていた事だから、今になって考えてみれば狂気の沙汰のように思う。5歳の頃(あやふやだがその頃だと思う)に出した仮説。この世界はゲームの中、人間(というより自分自身が)はゲームカセット、記憶とはセーブデータなのだと提言した。あの頃、兄がなかなかやらせてくれなかった(やる能力もなかっただろう)ゲームを横でじっと見ていて思ったのだ。自分自身が生きていることが”理解できなかった“。自分を視点に回っていく世界が、あの頃の私には理解できなかったものだ。いつか自分自身が見ている世界が終わりを迎え、ゲームで言うポーズとなった時、いや、この世界の常識で言うならばそれは死ではないのか?それは目覚めることのない眠りだという。そうなったら、私は、私が見ているこの世界は一体どうなる?永遠の暗闇に、私は閉じ込められるのか?カセット入れに入れられたままでほっとかれて終わるのか?それとも新たな(それも全く別ジャンルの)ゲームが開始される?いや、このゲームを私は“プレイ”しているのか?...、自問自答はずっと尽きずに居て、目覚めることのない眠りに思いを巡らせた私は、私はその頃から不眠症を患っていた。周りの人間に聞いても、ろくに相手はしてくれなかった(今の私もしないだろう)。そうして私は一人になった。孤独になった。それに自分が表現できる以上のことを思考していた私は、それを言葉や表現や、それらで言い表すことができず、まさに赤ん坊が己の欲求を言い表すことが出来ない為に泣き叫ぶように、私は毎日泣いていた。文字の通り毎日だ。ナキムシと呼ばれていた。結局私は「今の自分の身には余る、未来の自分に託し、この問題は忘れよう」という結論を出した。5歳の頃である。
今の私はもう、「死は眠りに過ぎぬ、それだけのことではないか。」と言っている。ハムレットからの引用だ。
死にたいと思った。11歳の頃である。
その時に私は、医者に障害者なのだと唐突に言い渡された。発達障害というものらしい。私は(その頃から思っていたが)そんな事を、具体的に言えば、脳の病気で、構造の問題で直しようがなく、それは普通の人とは違うことで、普通の人のようには行かず、それは卑下される事で、それは嘲笑される事で、それは白痴と言うらしい。私はショウガイシャ、害、害児。という情報を、ただ断片的に理解できる年齢、いや、結果的に理解できるガキだったから、私は今日まで呪われ続けているのだけど、そんな事を、たかが10だの11だの二桁になってすぐの年齢に知らせるべきでは、決してないと思う。そのせいで、私は安心してしまったのだから。ああ、神よ、あのさ、もうちょっと早く言ってくれない?と、そう思ってしまったのだから。これまで、何度自問自答を繰り返しても答えが出なかったワケだ、これまで何度周りの人間に問うても答えが帰ってこなかったわけだ、これまで何度周りのガキにコミュニケーションを求めても答えが帰って来なかったわけだ。なるほど私は害なのだ。その頃には漢字とその意味くらいは学んでいた。これまで流した涙の意味は?理解をえられない理由は?なぜ表現に失敗して泣いていたのか?なるほど、私は害らしい。それを理解してようやく、ようやくだ、安心したような笑顔で、私は心から、悲しくて泣いたのだ。初めての体験だったのだ、悲しくて、泣いたのは。赤子が悲しくて泣くだろうか、ああ、私は赤子であったのだ、そして今、初めての感情を獲得した、私はやっと子供らしく泣いていいんだ、ああ、私は悲しいんだ。
そうして死にたいと思った。11歳の頃である。
そしてワタシは“普通”に呪われた。“普通の人”の様に出来ない自分を怒り、憐れんで、悲しみ、嫌って。そうして私は、また一人になった。孤独になった。
それでも障害の症状をやわらげる薬はどうしても飲めなかった。自分自身を否定する、いや実際の所、もうぐちゃぐちゃになってしまった自分を”障害者“という肉の塊にできたのに、それを飲めばその塊がほどけてしまう気がして、それが苦しかったからだ。
湯豆腐を、食べたいと思った。昨日の事である。
人間は7,8年で身体のほぼすべての細胞が入れ替わるという。そうなった身体で、私は私であるのだろうか、という科学的視点からの一種の哲学問答がある。5歳の私は、これになんと答えたであろうか。今、私は16歳になって一ヶ月が過ぎた頃、もう2回は、ほぼすべての細胞が入れ替わりを済ませているのだろうか、5歳の頃とか11歳の頃とかと細胞が違くて、細胞が入れ替わっているのなら、ああだからだろうか、最近コーヒーが好きになって、学校に行かなくなった。確かに、口にいれる物の趣味は変わったね。と言っても小さい頃、副菜や汁物などに手を付けずに、白いご飯を白いご飯のままそれだけを食べていて気味悪がられていたらしい。その頃から米を甘いと捉えていたから、なんとなくアミラーゼがデンプンを分解することを、なんとなくで理解していたのだろうか。それでも好き嫌いは多かったな。だが最近になって一段階、舌の細胞も、つまり味覚も多面化して、ああ、煮込まれた野菜の味で冬を感じるだの、ああ、きのこが食べられるようになっただの、ああ、湯豆腐を、食いたいなどと思うようになった。そうしてまだ私は、相変わらず一人だった。孤独だった。だが、最近になって学校を休むようになった。理由は一人が辛いからである。これは“驚くべき事”だ。なにしろ、私はそこいらの、やれ高校になってぼっちになっただの、やれ友達と喧嘩しただの、いじめられているだの、やれの事彼女いない歴=年齢だのとは、文字通り年季が違うのだ。産まれてこの方である。何年ぼっちやってると思ってんだ。もはやその辺の「孤独な殺戮兵器」とかの頭に並べられる「孤独」さえ、掲げても文句は言われないと思うほど、言わせてみれば友達いない歴=年齢なのだ。そんな私が、孤独に心身を病む?ふざけろと思った。でも、苦しかった。カウンセラーの先生に「それは心が多面化し、成長したって事だと思う」と言われた。はじめは理解できなかった。率直に言えば理解したくなかったんだと思う。まあ、大人への体の良い言い訳にはなるだろう、というくらいに思っていた。でも、今さっき、これを書き起こす前に、湯豆腐の鍋から登る柔らかな湯気と、味覚の多面化と、人間は7,8年で身体のほぼすべての細胞が入れ替わる、という科学的視点からの一種の哲学問答を思い出した。16の冬に湯豆腐が食べたくなった事と、孤独が辛くなったことには、因果関係、ではないか、おなじ多面化と細胞周期によって括られた相関関係に位置するのではないかと思って、だからこの日記を書いたのだ。
さて、
人間は7,8年で身体のほぼすべての細胞が入れ替わるという。そうなった身体で、私は私であるのだろうか、という科学的視点からの一種の哲学問答がある。
まあ実際には器官によって周期は異なるし、脳なんてほぼ一部しか入れ替わらないらしいが。そんな野暮な理屈は無視して。
昨日の私は、これになんと答えたであろうか。
変わるとも言えるし、変わらないとも言える。
そう答えただろう。
だって今でも私は障害者だし、不眠症だし、孤独だ。考えすぎて疲れるし、今でも表現は苦手だし、薬が苦手だ。あと小さな身体だ。
でも少なくとも5歳の私からすれば、「死なんて眠りに過ぎない。それだけのことだ。しばらく寝れば勝手に目が覚めるだろう?だから恐れなくてもいいから、おやすみ。」と、寝れない夜の自分に言い聞かせることができるし、
11歳の頃から比べて、背負い込んだ障害と、自分自身をひたすら呪っていたあの頃に比べて、今の私は私を愛している。十分変わったと言えるだろう。自分自身が大好きでたまらない。ずっと、自分という、小さな身体を抱きしめてやれなくて、ごめん、申し訳なく思っていて、でも、この小さな子供の涙を拭ってやれるのは、自分だけだった、自分に寄り添ってやれるのは、自分だけだった。自分を愛してやれるのは、自分しかいないと思っていた。今では、自分を愛してくれている人がいる、でもいや、だからこそだろうか。自分を一番に愛してやるべきなのは、自分自身ではないだろうか。そうゆう思いで愛している。ああ、それに障害も。私は、障害という言葉を「障がい」と表記する事に、しばしば疑問を抱く。”もてる限りの思考を巡らせた上で”、しかしこれは、やはり害なのだ。それ以外何物でもなかった。周りにとっても、自分自身にとってもだ。それでも、これを含めて、私なのだ。かつて薬を飲めなくて、無理やり飲まされても吐いたように。身長が伸びた身体の自分なんて考えられないみたいに、やはりこの害の名を関する特徴を取ってしまえば、それは私ではないのだ。だから、変わらないとも言えるのだ。これが私なのだ。死ぬまで一緒、ただそれが、足枷から、自分の一部に変わっただけの話である。
そして、昨日から比べて、ああ、少し変わってるし、それに、変わんないな。)
今日は、ポトフが食べたいなと思った。