「〜な人もゐるんですよ」の問題
あらかじめ書いとくけど、人が喜んでる所に「〜な人もゐるんですよ」と言って來る奴がむかつくとか然う言ふ話ではない。
自分が喜んでる時に自分で勝手に「〜な人もゐるんだよな」と云ふ事を思ひ出して了ってしんどく成る、と云ふ話がしたい。
橘榛名の心裡に「喜びに水を差す機構」が組み込まれてゐて、時々發動する。
詰り「何某かの良き物を享受してゐる時、其れを良き物として享受しない人がゐる事を思へ。」と云ふ格率である。
(格率はカントの用語らしい。橘榛名はカントの哲學を知らない。)
例へば、橘榛名は深い綠色の物を好むが、時折此の機構が發動して「でも此の美しい綠色を美しい綠色として享受出來ない人も身近に澤山ゐるんだよな……此の感情を素直に享受するのは良からざる事なのでは……」と云ふ氣持ちに成って了ふ。
他の例
美味しい物を食べてゐる時「でもこんな美味しい物を食べられない人も澤山ゐるんだよな……」
結婚式など祝賀の會に參加してゐる時「でも今日御葬式を擧げてゐる人もゐるんだよな……」
試驗に受かった時「でも落ちて悲しんでゐる人もゐるんだよな……」
別に私に限った話ではなくて、似た樣な狀況に陷ってゐる人は澤山ゐると思ふ。
例へば大災害の起きた時に豫てから計劃してゐた祝宴を豫定通り開催すべきか惱む、見たいな話はついったでも見た氣がする。
問題は此の機構が發動すると可也の期閒に亙って開き直る事も出來なく成って折角の喜びが失はれて了ふ事。
此の格率自身の境地(水面)に立つと、詰り、喜びがある時、其の喜びが享受出來ない人の事を無視して只喜ぶより、喜びつゝも其の喜びを享受出來ない人の事を思ひ出してゐる狀況の方が、望ましい狀況だ、と云ふ事に成る。
しかし、觀測者自身の水面に立って觀測される現象は、單に喜びがある時ピンポイントに其の喜びに水を差されてしゅんとした氣持ちに成ってゐる丈である。
自己嫌惡の不可能性に就て嘗て考へた事があり、此の事を思ひ出すと自己嫌惡が自動的に中斷されるのだが、自分の喜びの否定に就て似た樣な機序で中斷する事は今の所困難である。 此の機構は「格率」として出現するので、他の規則や格率と比較する事が出來るかも知れない。
電車に遲れさうに成ってゐる時、目の前でドアが閉まりだしたとする。
其の瞬閒、「驅け込み乘車はすまじき事だ」と云ふ格率が想起され、電車に乘るのを諦める。
電車は行って了ふ。
此の時、觀測者に觀測されるのは「あー乘れなかった、到著が遲く成って了ふ、厭だな。」と云ふ不快感である。
しかし同時に、此の格率に遵った事は鐵道の安全な運行に確實に資したと見る事が出來る。
鐵道は、帝國であり、社會である。帝國に奉ずる者には恩寵が與へられ、社會に從ふ者には對價が與へられる。
ドアを無理矢理こじ開けて乘るより良い事をした筈なのだが、其の喜ばしさは直接には享受する事が難しい。
難しいのだが、何某かの規則を守ると云ふ行爲は、帝國に奉ずる事であれ、社會に從ふ事であれ、其等の圓滑な運行に寄與したと云ふ貢獻を知る事が出來、直接の喜びが觀測されなかったとしても其の貢獻を感情と天秤させて折合ひを付ける事は出來る。 でも、さうすると、「何某かの良き物を享受してゐる時、其れを良き物として享受しない人がゐる事を思へ。」と云ふ格率を守る事は一體何に貢獻してゐる事に成るのだらうか。其れによって一體どんな價値が達成されてゐるのだらうか。此れが判らない。
誰か助けて吳れ……